「命の選別」


命の選別


障がい者があたりまえに生きられる社会へ〈れいわ新選組木村英子議員のオフィシャルサイトより(全文)〉

〝今回の大西氏の「命、選別しないとだめだと思いますよ。はっきり言いますけど、その選択が政治なんですよ」という発言を聞いて、施設にいた頃の私のトラウマを思いだし、背筋がぞっとしました。
 「命の選別」それが政治によって決められる世の中になったら、常時介護の必要な重度障害者の私は真っ先に選別の対象になるでしょう。
 障害を持った幼い時から自分の命を誰かに預けなければ生きていけない私にとって、他者に従うことは絶対でした。私の命、私の身体、私の生活、すべてを他者にゆだねるということは、支配されてしまうことです。
 「命の選別」、この言葉は、私が幼いころから抱いていた、「殺されるかもしれない」という避けがたい恐怖を蘇らせました。大西氏の発言は、自分の命を人に預けなければ生きていけない人たちにとって、恐怖をあたえる発言であり、高齢者だけではなく障害者も含めた弱者全体を傷つけた暴言であると思います。
 「人は生きているだけで価値がある」という理念を掲げた政党であるれいわ新選組の一員から、今回の発言が出たことに、私は耳を疑いました。
 とても悲しかった。そして、地域で差別と闘ってきた私の35年間の活動が否定されたようで、とても悔しく、怒りを抑えられませんでした。
大西氏の発言についての当事者の意見を聞く会において、当事者たちが涙ながらに意見を訴えたにも関わらず、大西氏は自分の主張がいかに正しいかを話すだけで、当事者の必死な訴えに理解を示そうとはしませんでした。
さらに、命の選別発言の動画に対して、謝罪と撤回をホームページに載せたにも関わらず、当事者の話を聞いたその翌日に、再び動画を公開し、これからも命の選別の主張を続けていこうという意思表示に私たちは恐怖を拭い去れません。
大西氏の処分は総会で決まることになっていますが、私は、今回の大西氏の発言は、決して許すことはできません。
 しかし、これは大西氏だけの問題ではなく、社会全体の問題でもあると思います。程度の差はありますが、大西氏と似たような考えを持つ人は少なくありません。
幼い時から障がい者と健常者が分けられず、日頃から関係性があれば相手の苦しみを想像することができたと思いますが、現状は、障がい者と健常者が、一緒に学び、一緒に働き、一緒に生きる社会の構造にはなってはおらず、お互いを知らないことで、誤解や偏見が蔓延してしまい、無意識のうちに差別が生まれてしまっているのです。
今回の発言は、まさに分けられていることの弊害なのです。
 れいわ新選組は憲政史上初、重度の障害をもった国会議員を生み出し、社会に迷惑とされている弱者が政治に参加するという誰もやったことのないことを実現した初めての党です。
 誰一人として排除されない社会を作るために、それぞれの苦しみや怒りを抱えた当事者が政治に関わることによって変えていける、それが誰もが生きやすい社会を作るために一番必要な政治のあり方だと私は思います。
 今回の件で、弱者に対する差別が明るみに出ましたが、私は、自らの掲げる理念である「共に学びあい、共に助けあい、共に互いを認めあい、共に差別をなくし、共に生きる」を実現し、「誰もが生きやすい社会」を作るために、これからも差別と向き合い続けて、政治を変えていきたいと思います。
命の選別をするのが政治ではなく、命の選別をさせないことこそが、私が目指す政治です。〟




重度障害者である木村氏の言葉は重い。木村氏の主張通り、重要なのは、これは大西氏だけの問題ではなく、社会全体の問題であり、程度の差はあるが大西氏と似たような考えを持つ人は少なくないということである。

だが、大西氏の「命の選別」における主題は、「障害者」問題ではなく、「高齢者」問題である。もちろん、大西氏の主張する「命の選別」の底流にあるのは「差別」に他ならない。つまり、「差別」、「選別」というのは言葉の遊びで、「命の差別」について主張していることには変わりがない。


コロナ禍において、私たち目の前に立ち塞がっているのは、
生命の「順序」についてである。


人間は他の被造物がもつ『ほかのもののためにどれだけ役に立つか』と いう『有用性』による価値ではなく、「それ自体」で価値をもつ、つまりは他のものとの比較不能な価値をもつ「比較を絶する無条件的価値」の存在として捉えられている。そして、これが「尊厳」の基本的な意味であるとされているのである。

すべての人間は、性、年齢、社会的身分、または民族に関係なく、「尊厳」において平等であ る。我々の社会は平等な人間の尊厳の実現に献身している。この概念は、特定の人間的に 相応しい特性が具現化されたときに生命を評価する質の倫理ではなく、共通の人間性の観 点からすべての人間に価値を見出す平等性の倫理を採択する。

人間の「尊厳」は獲得されたり失われたりすることはできない。どのような人間であっても、たとえ、芸人でも、ホストでも、ヤクザでも、重度の「障害者」であったとしても、最も下劣な「犯罪者」でさえ 人類に共通する尊厳を持つ人間であることに変わりはない。人間の「尊厳」を失いはしない。自由が法によって否定されても、 「尊厳」はなお存在しなければならないのである。

だが問題は、この個人の「尊厳」は決して無限ではなく「尊厳」と「尊厳」は対立するということであり、この国が抱える最大のパラドクスは、「無限の尊厳」というタテマエと現実の対立なである。重度障害者である木村氏が、政治信条として、〝命の選別をするのが政治ではなく、命の選別をさせないことこそが、私が目指す政治です。〟を掲げることは限りなく尊く、そして深い。

だが、この新型コロナウイルスに対しては、人間の「尊厳」などまるで通じない。
人類社会はこの未知のウイルスにどう立ち向かって行くのかという点においては、「障害者」も「健常者」も「高齢者」も関係ない。全ての人間が様々な立場で戦っていくしかないのである。


「人権」の素因数分解ーこの国のフルカバレッジという病理と人間の「順序」を恐れる者たち


私たちの「視知覚」は対象の一面のみを捉え知的理解は事象の因果関係だけを汲み上げる。もし考察対象が物理的な立体であれば、そこには無数の視点と無数の理解の道筋があり、それだけで物的存在が人間の知覚理解の限界を超えるものであることが意味されている。つまり、「人権」という概念は知覚で完結するものではなく、それが繰り返し解釈されることによって浮かび上がる認識のまとまりであり、いわば未知の総体としてアプリオリに前提されているのである。
この国の「人権」は、実に奇妙な果実である。目の前の命を救うために、自らのリスクを顧みず、その結果ウイルスに侵食された医療従事者によるコロナ感染とこれほど三密、飛沫感染、ソーシャルディスタンスが叫ばれる中、快楽を求めてのこのこホストクラブに現れてはハグやシャンパンコールの大はしゃぎで感染した人間が同じように並び立っている。

片や名誉の負傷で、もう一方は感染経路不明のクラスタを呼び起こすウイルス・テロリストである。コロナ禍においては、人間が生きていくために必要なものの順序が問われているのである。

確かに医療従事者とホストで興じる客は、確かに法の下では平等ではあるとされるが、それは、相対的平等概念に基づくものであり、人類社会におけるその安全と存続における有用性において、医師とホスト客は絶対的平等であるとは言えない。

感染による、病床隔離、治療、そして、重症化において、最も重篤な患者に使う人工心肺装置「ECMO(エクモ)」の不足が起これば、医師や医療従事者の生命や従事環境が優先されることは、一定限度の合理的区別とトリアージ(治療優先判断)、積極的差別是正措置(アファーマティブ・アクション)としては、この論理で正当化される。

また、説明原理としての論理的な関連性という意味においても、いちいち、立法事実をあげつらう必要はない。つまり、医療従事者とホスト客のトロッコ問題においては、議論の余地など一切存在せず、子供でもわかるごく当たり前のことなのである。


人間の「順序」の問題は、どこでも、いつでも起こり得る。命の「選別」は全てが人間の有用性に関わる問題ではない。


洋の東西を問わず、沈む船から救命ボートをおろすときは、「子供」や「女性」からボートに乗っていく。それは薄っぺらなフェミニズムでも、レディーファーストでもない。すべて人類という種の「次世代」のために、それが生きしもの摂理なのである。

つまり、「障害者」も「高齢者」も決して一番ではない。その上で限られたボートをどう配分するかの議論を展開しなければならないのである。


トリアージにおいては、救命の可能性が低くなった患者から人工呼吸器を外し、救命可能性の高い別の患者へ付け替える「再配分」を許容し得る。また、リビングウイルやアドバンス・ディレクティブにより、患者が自ら人工呼吸器を外すことも許容すべきなのである。

アドバンス・ディレクティブ(事前指示書)とは、リビングウィルや医療判断代理委任状などの医療上の決定についての本人の要望を伝達する文書や記録のことである、リビング・ウイルは、患者が事前に不必要な延命措置をしない,すなわち尊厳死を望むことを文書で宣言しておくことをいい,その場合は医師は患者の意思に従い蘇生術などの延命措置を行わないDNR(DNR:don't resuscitate)を選択する.

もちろん、人工呼吸器の不足が起こらないようにすることが、何より重要な命題である。だったら、政治はつべこべ言わずにそれを実行すべきである。

医療行政が人工呼吸器を含む医療資源を、必要な人々に届けるための体制整備に全力を挙げることは重要であることくらい誰でもわかっている。

そもそも、この国の政治が全く機能しないから「命の選別」を行わなければならない。新型コロナウイルスの感染が急拡大しているアメリカでは、一部の病院で心肺停止した患者への蘇生措置を行わない方針が検討されている。医療リソースが不足しているため、医療従事者の感染リスクを低減するためだ。ただし、そこには生命倫理の問題もある。

通常なら、最期まで手を尽くすという使命のもと、すべての患者に蘇生措置を施すのが当然である。しかし、新型ウイルスが蔓延している今、それは医師や看護師を感染のリスクにさらすことを意味する。

こうした状況では、「患者を選別せざるを得ない」。医師は「人工呼吸器の数が足りない以上、若く、助かる見込みの高い患者を優先する」と語っている。

高齢で回復が望めそうにない者、余命の短い者を見捨てるという厳しい結論を出している。年齢に加え、持病の有無など患者の全般的な健康状態も考慮すべきとされている。これは深刻な持病のある患者の死亡率が高いとされていることに加え、高齢や虚弱な患者のほうが治療に時間がかかり、よりリソースを消費するためだという。
誰だってトリアージなどによる「選別」など下したくない、現場の医師がニタニタ笑いながら人の生命を「選別」していると思っているのか。

トリアージとはとても残酷な概念なのである。集団感染のリスクから葬式も禁止されていて、病院の空きスペースには埋葬されないままの棺が積み上がっているそうだ。患者が亡くなっても、遺族は立ち会えない。これからこの国で起こるの医療崩壊とはそう言うことである。
医療崩壊という最悪の事態を避けるためには、
ICU対象治療全体にキャップ(上限)をかけ、その中で救える命を最大限救っていくという、トリアージ生存可能性優先治療を許容しなければならない。

電車が線路上に見える5人の縛られた人々を避けるため別の軌道に切り替えるレバーを引けば、今度はその先にいる別の人をひき殺してしまうという、いわゆる「トロッコ問題」のような倫理的ジレンマを全て現場の医師に背負わすべきではない。医師たちのトリアージのためのそのような苦渋の決断を助けるためのものだと思われるとしつつも、自分にはそれに対する道徳的判断はできないと思っているはずである。もちろん、すでに全員救命が不可能なのだろうが、政治家は不可能になる前に、ICUの収容能力を拡大し、他者との距離を取るなどの感染防止対策を国民に徹底すべきという理想は捨てるべきではないが、政治が本来やるべきことをせず、厳しい判断は全て現場の医師に任せて、問題の本質から目を逸らして、理想や空想を喚き散らしているこの国の政治家こそが、もっとも生命を軽んじている張本人であることを忘れてはならない。


今こそ『トリアージ』の問題を本格的に議論していくべき


「トリアージとは、非常事態の際に、明らかに助かる可能性が低い人、軽症の人、という形で患者を重症度によっていくつかの段階に分け、治療の優先順位を決めることである。2011年の東日本大震災の時にも注目された言葉で、この時には被災者本人の意思を問うことなくトリアージが行なわれたことに議論が起こった。

今回のコロナでも亡くなっている人の大半は高齢者で、80歳を超える人が重症化したら亡くなる可能性が高い。
とはいえ、医師側の判断で“誰を助けるか”を決めたり、高齢の患者につけられた人工呼吸器や人工心肺を外すのは2011年のときと同じように議論や批判が起こるだけでなく、あとになって医師が遺族から訴えられるリスクもある。

そんなときに年齢などがトリアージの基準になっていたり、患者がカードによって“若者に医療を譲る”ことを明確に意思表示していれば、そのようなリスクを避けることもできる。未知のウイルスは、私たちに「生き方と死に方」の責任と覚悟を問うているのかもしれないのである。
いかなる批判があろうとも、コロナウイルス禍のICU集中医療における「高齢者」問題は徹底的に議論すべきである。

一部の政治家による「年齢や持病、障害の有無で医療の線引きを行う」ことは、こうした判断基準が独り歩きして「生命の選択」や「適者生存」など、「価値なきいのちは切り捨てるという発想につながっていくという主張は問題のすり替えである。論点は「高齢者」の終末医療やリビングウイル、死生観、人生会議についてである。新型コロナ禍においては、人類社会に対して、命の「順序」についての根源的な命題を突きつけているのである。

基本的人権とは、個人の尊厳に底打ちされたものであるとも言える。
命は大切だが、ただ生き永らえることだけが目的ではなく、手段としてその使いどころを考えてこそ輝くもの。それが命の尊厳である。


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