ボクらがいま喫煙者に対してしていること
・2020年4月からの喫煙規制
「来年(2020年)4月からバーでもタバコを吸うことができなくなるみたいなんですよ」
「え? 嘘だろ? なんでバーでタバコが吸えないの?」
「少なくとも従業員を雇っているとダメみたいです。うちは、いまはひとりでやってるんで一応大丈夫みたいなんですけど」
「そうなんだ……」
先日、行きつけのバーでのマスターとの会話である。
その後、ネットで調べてみると、これは2018年6月に成立した東京都の受動喫煙防止条例によるもののようだ。そしてその規制内容は、どうやら同年7月に改正された健康増進法よりも厳しいらしい。
シガーバーなどは「喫煙を主目的とする施設」として別扱いとされているようだが、一般のバーは他の飲食店などと同じ扱いである。
そもそもバーなどに酒を飲みに来る輩は、他の客が喫煙するであろうことなど織り込み済みだと思うのだが、どうやらダメらしい。
・昔の喫煙事情
私がタバコを初めて吸ったのは、中学2年の時である。
その時「これはオレのカラダには合わない」と感じ、以来吸っていない。その時一緒にタバコを吸った友人は、つい最近禁煙するまではずっと吸っていたから、彼のカラダには結構合っていたのかもしれない。
このように、私は喫煙者ではない。喫煙者ではないが……いや、だからこそなのかもしれないのだが、昨今のこの国の(とりわけ東京都の)喫煙者に対する「仕打ち」が、とても気持ち悪く、イヤなのである。
私が大学時代を過ごしたのは1980年代で、そのころは、まだ電車内でもタバコが吸えたのではないだろうか。ただ、山手線はすでに禁煙だったはずで、うっかり山手線内でタバコに火をつけてしまった友人が、注意され恥ずかしかった、と言っていたことを妙に憶えている。
当時、私は東海道線を使って通学していたのだが、東海道線は、まだ電車内でタバコが吸えたか、あるいは禁煙になった直後で、ボックス席の向かいでタバコを吸い始めたおっさんと口論になった記憶がある。
「嫌煙権」という言葉が生まれたのもそのころではないだろうか、などと思ってウィキペディアを見たら、1978年に生まれた言葉のようだ。つまり「嫌煙権」などという言葉が生まれるくらいに、そのころは、喫煙者は大きな顔をして、タバコを片手に大手を振って歩いていたということだ。他人に気兼ねなく、いつでも、どこでも、タバコを吸えることが普通だった。
タバコに関して言えば、個人的には、昭和63年(1988年)の司法試験の論文試験の憲法の第1問で、受刑者の喫煙の自由に関する問題が出たことが印象に深い。「喫煙の自由」が人権に含まれると考えるかどうかで、答案構成が変わるが、どちらの構成で書いても、受かる人は受かり、落ちる人は落ちる出題だった。私は落ちたのだが、憲法の評価自体は悪くなかったような気がする(都合よく記憶が書き換えられている可能性はある)。
・喫煙規制の気持ち悪さと恐怖
このように、一時期は多数派であり、大手を振っていた喫煙者であるが、その後、旗色が悪くなる。
健康ブームや、海外からの影響もあるかもしれないが、喫煙に対する規制は次第に強くなり、乗り物内、街中などでだんだんとタバコの吸える場所は狭められていった。昨今の喫煙者は肩身が狭くなる一方だろう。
元来喫煙者でない私は、そういうことになっても、個人的にはまったく困らない。タバコが吸いたくても吸えない、などという苦しい思いもしない。
しかし、この風潮は、昨今、あまりに行き過ぎているように思え、見ていて気持ち悪い。そして、怖くなる。
何が怖いかというと、「コイツは悪いヤツだ」と決めつけたら、徹底的に叩いてよいのだ、というような風潮に感じられる点だ。
いや「悪いヤツだ」と言うだけとは、ちょっと違う。
「悪く、かつ、弱いヤツだ」
と言ったほうが正確だろうか。つまり、コイツは、どうせ、どれだけ叩いても反論できないし、かつ、周囲の人たちも彼に味方したりはしない、と思った途端、メチャクチャに叩きまくっている、というように見えるのだ。
「水に落ちた犬は叩け」
という言葉を、かつて初めて聞いたとき、随分怖い言葉だなあと感じたが、なんかそんな薄ら寒いような恐怖を感じるのである。
人体に対するタバコの害悪を啓蒙した効果ゆえなのか、あるいは、喫煙に対する締め付けに根をあげたからなのか、喫煙者の数は年々減少しているようだ。統計によると、成人男性の喫煙率は、1965年(昭和40年)には80%を超えている。1990年(平成2年)には、まだ60%を超えていた。それが、2018年(平成30年)では27.8%であり、30%を下回っている。男女合計では、1966年の49.4%が最高で、ほぼ半数であえる。それが2018年には17.9%となっており、20%に満たない。もはや完全な少数派といってよいだろう。
このように、数も少なくなり、また、タバコ自体の人体に対する害悪ももはや疑いようのない状態なので、反論しようにもどうにも分が悪いのは確かなようだ。
だが、タバコに対する規制を、もっと、もっと、と進めていく「タバコを吸わない者たち」の姿勢が、私は正直怖い。
・その恐怖の源泉はどこにあるのか?
では、その恐怖の源泉はどこにあるのだろう? この恐怖は、どこから湧き上がって来るものなのだろうか?
いまは、話題が「タバコ」だから、まだよい。「タバコを吸わない私」に対して彼らがその攻撃の矛先を向けることはない。しかし、話題が変われば、どうだろう? 彼らの攻撃の矛先は、たちまち私に対して向けられるかもしれない。
自分の心理をたどってみると、どうやらこの薄ら寒い恐怖心の源泉はそこらへんにある。
もし「酒」や「エロ」や、あるいは、私が嗜好している他の何らかに対して、突如として「喫煙規制」と同じようなことが巻き起こったとしたら、どうだろう? その時は、私が、現在の「喫煙者たち」と同じ側に立たされることになるのだ。そして、その時は、いまの彼らのように、メチャクチャに叩かれるかもしれないのである。
つまり、いまは大丈夫でも、自分も、いつ「喫煙者」の側に回るか分からない。明日は我が身。薄ら寒い恐怖の源泉は、どうやらそのあたりにある。
そして、この構造は何かに似ていないか?
そう。まるで「いじめの傍観者」のようではないか?
「こりゃ、いくらなんでも、やりすぎだろう……」と内心思いながら、自分がいつターゲットにされるのではないかビクビクしてしまい、声を上げられずにいるその恐怖と、その構造は同じであるような気がする。
・自由と自由の衝突とその調整
ロビンソン・クルーソーのように絶海の孤島に独りで暮らしていれば、自分の自由が他の人の自由と衝突することはない。しかし、人間はひとつの社会の中に多数で暮らしている。それゆえ、その当然の結果として、その人の自由は、同じ社会に暮らす他の人の自由と衝突することになる。そうして、そこには調整が必要になる。そして、その調整は、国家が法律によって行う。
基本的人権(自由権)の制限に関して、大学の授業で使う憲法の教科書などを読むと、だいたいこんなようなことが書かれている。
例えば「表現の自由」と「プライバシーの権利」は矛盾・衝突する場面がある。だから、その場合には調整が必要となり、表現の自由といえども、プライバシーの権利のために制限されることもある。
また、「人に殺されない自由」と「人を殺す自由」などは、完全に矛盾するだろう。だから、調整が必要であり、一般的には「殺されない自由」が優先され、「人を殺す自由」は制限される。日本の場合であれば、人を殺すことは殺人罪(刑法第199条)として禁止され、これに違反すれば、処罰を受ける。ただ、極めて例外的な場面では「人を殺す自由」が優先される場合もある。
「いや、人を殺す自由などそもそも存在しない」などと言う人もいる。
だが、私はそうは思わない。もしそうなら、Aの命を守るために、Aを殺そうとしたBの命を奪うことが正当防衛(つまり権利)として認められることもなくなってしまうからだ(もちろん、法律家の中にも異論があることは承知している)。
つまり、どんな「自由A」も、これと矛盾・衝突する「自由B」との間で、調整が行われるべきだと、私は思う。
そして「喫煙の自由」というものも憲法上認められている、と私は思っている。そして同時に、他方で「喫煙しない自由」も存在していると思う。そして両者は「受動喫煙の危険性がある場面」において矛盾・衝突する関係に立つから、そのような場面において「喫煙しない自由」を優先し、他の人の「喫煙する自由」を制限することは、私は、まったく構わないと思う。
だが、現在、東京都が喫煙に対してしようとしている規制は、その限度を超えてはいないか?
受動喫煙の危険があることが明らかな場所に、成人が、自己の自由な意思によってわざわざ入って来た場合に、そこでの喫煙を禁止する必要性と相当性があるとは、私には思えない。
もちろん、受動喫煙がイヤでも、他の必要からどうしてもその場所に入らざるを得ない、という場合なら別である。例えば、病院、学校、役所、職場などから受動喫煙の可能性を徹底的に排除することは、よい。
だが、そもそも、バーなんて「タバコ」よりももっと健康に悪い「酒」を飲みに来る場所なのである。そして、バーなんて、そもそもどうしても立ち入らなければならない、という場所でもない。
居酒屋などでは、いろいろな事情から「本当は受動喫煙はイヤだな」と思いながらも、付き合いや職場の宴会などで来ないわけにはいかない、という場面もあるかもしれない。しかし、バーはそういう場所ではないだろう?
そして、同様のことは、わざわざバーで働こうという人に対しても当てはまると思う。
・ボクらが彼らにしていることは何か?
いま、タバコを吸わない「ボクら」が、タバコを吸う「彼ら」に対してしていることは、一体どんなことだろう?
いじめと変わりがないのではないか、と私は感じている。
「いや、そうじゃない。タバコはカラダに悪いもので、彼らだって、本当はタバコをやめたほうがいいのだ」
喫煙を規制しようとしている人たちが、いつかこんなことを言い出すのではないかと考えると、私は怖くてたまらない。そういう人たちが「飲酒を規制しよう」と言い出すまで、あと1ミリしかないからだ。
ハッキリ言おう。
いじめとは、愉しいものなのだ。
それは人間が本来的に持っている残虐性の現れかもしれない。
だが、人は同時に、それが悪いことだと知っている。だから、それをしないようにとの抑制が働く。
しかし、もしそれを「正当化する理由」を人が手に入れてしまったら、どうだろう? もはやそれを抑制するモノはどこにも存在しない。これ以上の恐怖があるだろうか?
「日常生活の中での意図せぬ受動喫煙の機会を徹底的になくそう!」
それはよい。それはそれでよいのである。
自由と自由の衝突とその調整。
ある自由を実現するために、他の自由を制限する。
自己の自由の実現のために、他の人の自由が犠牲になっている。
それはそれでよいのだ。ただ、この問題がそういう関係性の上に成り立っているという認識だけは常に必要だ。そしてこの問題に対する議論を、決してこの土俵の外に逃がしてはならない、と私は思っている。
「喫煙者のためだ」などというのは、お為ごかしの詭弁である。パターナリズム(保護主義)を発動することが許されるのは、もっともっと限定された場面に限られる。ひと言で言えば、自由を謳歌できる合理的人間像の限界の外側にその人が立っている時だけだ。
つまり、この問題はあくまで「喫煙しない自由」と「喫煙する自由」との衝突と調整の問題なのである。そして、そうであるがゆえに「喫煙する自由」に対する制限は、これを制限しないと「喫煙しない自由」が実現されないという限度に限られる。そこに正当性の限界がある。
・喫煙の規制に対して私が願うこと
喫煙の規制について私が願うことは、極めてシンプルである。
受動喫煙しても構わないと考えている人のことは、どうか放っておいてほしい。ただ、それだけだ。
バーなんて健康になりたい人が行く場所ではない。健康になりたい人は、スポーツジムか健康ランドにでも行けばよい。私たちはそれを止めない。だから、バーに行って、少し不健康になっても、それでもいいと思っている私たちのことは、どうか放っておいてほしい。ただ、それだけである。
そして、そういうことを放っておいてくれる、優しい社会であってほしい。この件についての私の願いは、ただそれだけだ。