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「犬を操れる」この小麦を蒔いて放心しました。きっとあなたも共謀するでしょう。

へちまです。

文章術云々をふたつみっつ見かけたので、
私もすこし書いてみようかと。

ただし「術」なんてものではないです。
その方面には私は滅法、暗いので。

なので、おもに「文体」について書いてみます。

この文章、
いわゆる「有益」なものではないです。
今すぐ何かの役に立つものだけ欲しい人は、
見なくていいです。

ビジネス関連の記事としては、
掟破りの内容になっています。

文体。文の体。

あたりを見回してみる。

文法や漢字という、
基礎の国語力の不足。

それを始めとして、
文章技術の不足、語彙の貧弱さ、表現の薄さ、、、、、
それを指摘するのは容易いけれど、、、、

しかし実は、そんなものは些細なこと。
勉強すればいいだけなので。

各自勉強して下さい。おわり。

と終わってはいけないので続けるならば、

一番不足しているのは、文体。

文の身体、文の命というものです。

ここで結論を言うならば、

文体とは(私が今、勝手に思いついて定義してみると)

文章を使って身体に到達するもの
      ⬆⬇
身体から文章となって表されるもの

これが双方向的に、
言わばトンネルを両側から掘って
貫通させるようにして、

出来た通路のことなのです。


こう説明すれば解る通り、
文体を作り鍛える為にすべきことは、
3つ挙げられます。

1.身体へと向かうように文章を鍛える

2.文章へと向かうように身体を鍛える

3.トンネル自体を繋げるように、双方から呼び合う

ということ。

「なんやねん」といわれそうですが。

まず1を説明するならば、デッサン力をつけるということ。
これは絵を描く人を思い浮かべればいいです。

ひたすらデッサンをする。
すなわち、見る、見る、見る。書く、書く、書く。

2については、読む。考える。生きる。
これを強化していけばいい。
どれも難しい。

大抵の人は、

自分で読み
自分で考え
自分で生きる

ということをしていません。

しかし、これがなければ文章を、
少なくとも読んでもらえる文章
生まれる源泉を作ることは不可能です。

ということで、
大抵の私の主張は同じようなものになってしまいますが、

自分の眼で見て、考えて、生きるということを、

恥じず臆せずやって行きましょう。

というところに落ち着きます。


良い文章がうすっぺらい人間から生まれることはないです。


薄いものを濃くするのは、無理。

濃いものを薄めて読みやすくする。

概してビジネス系の書物の文章はぺらぺらです。

いわゆるライターの文章・ブロガーの文章は、
いわば標準的であることが命。

既成品めいた「装置」に近いといえましょう。

用途に即した実用的な価値のあるものだけど、

そうした「悪い癖」を一旦つけてしまえば、

人を魅了する
という意図からは遠のいてしまうかもしれません。


勿論、それも職業的にはアリだと思ってます。

ですが、

アナウンサーの喋りに共鳴も感動も私はしません。
する人もいるだろうけどね。

ライティングの本を読んだりするのは勿論、
型を覚える意味で必須ですが、
それは服の選び方や着こなしの様なもの。

服がしっかりと似合う様な締まった身体や骨格を作る。
そうした事とはまた別の話です。

存在感のある文章。
独自の文体。

それは、言葉で身体と心とを繋いでいくことにより生まれます。

そして、そこに人を引きつける魅力を生み出そうとするのであれば、

言葉や知識の引き出しを増やすのは言わずもがな、

思索や読書などで、

人間的な深みを培っていく事が不可欠なのはわかるでしょう。

それが骨格や筋肉となって行きます。


ではその為には、まずは誰でもいいです。

好きな文章、好きな作家なんかを決めて、
それらにしっかりと魅了され読み込むのがいいでしょう。

夢中になって堕ちずにはいられない。
言葉にそんな世界を持つことです。

魅了される者だけが魅了するのですから。

真似なんかはしないでいいです。
むしろ、してはいけません。

テニスや野球のフォームなんかを覚えるのではなく、

走り込んで基礎体力をつける。

そういう営みとして、読む。

その上に言葉が乗ってきます。


ほんの一例として思い付くままに、

いくつかの本と文章を紹介しましょう。


まずはこれを。

匂いって何だろう?
 私は近頃人の話をきいていても、言葉を鼻で嗅ぐようになった。ああ、そんな匂いかと思う。それだけなのだ。つまり頭でききとめて考えるということがなくなったのだから、匂いというのは、頭がカラッポだということなんだろう。

小説の書き出しとしては私が最高と思う文章が、これ。

坂口安吾の『青鬼の褌を洗う女』

独特の安吾文体。

この構造をうまく説明する言葉を私は持たないのだけど、

なんか変ではないですか。わからないかも。
2回読んでみて。

なにか独善的な筋道、
短絡的なひとり合点のような回路を持った文章。

思考の癖に沿って文章が流れていく。

その流れを追う為に、言葉に負荷がかかっている状態。

そこに人の存在のドライブ感が息づく。

名文でありながら、
模範的・教科書的な文章とは遠いことがわかるかな?

これが、文体です。

こういうものを持った時、
人は技術や文法の正しさを超えて、

文章としての良し悪し、
読みやすさわかりやすさを超えて、
人に乗り移ることが出来るのです。

ふと思いついたサンプルなので、

もしかすると、わかりにくい文例だったかもしれないな。

ではこれはどうかな。

私はそのころ耳を澄ますようにして生きていた。もっともそれは注意を集中しているという意味ではないので、あべこべに、考える気力というものがなくなったので、耳を澄ましていたのであった。

同じく坂口安吾の『いずこへ』の冒頭である。

これも内容・文体ともに似ているが、さらにドライブしている。

なんとなくわかりましたか?

なんとなくでいいです。


もうひとつ。

人間、失格。もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。

太宰治ですね。

この句読点。

これにより読者は著者の呼吸とつながり、
太宰の術中にハマって行ってしまう。

呼吸は身体そのもの。
これが文体というものの魔力です。

「私は人間失格です」
「人間に失格しました」
でもない。

この「、」こそに命が宿っている。
文章が「正確にわかりやすく伝えるだけの装置」
でなくなる何か。

それがこの「、」なのです。


こういう事を真似ろというのではなくて、

文章のドライブ感を身体に受けて、

身体をドライブさせてそれを文章に還元して行く。

そういう回路を作り出して欲しい。
時間をかけて。

そうやってあなただけの「、」が生まれるのだから。


文章技法とは文体という荒馬の手綱さばきであるべきで、

その逆はありえない。

それを知ろう。


『青鬼の褌を洗う女』『いずこへ』はこちらに収められています。⇓

またこうしたドライブ感を過剰に圧縮し、

爆発させた作家の代表として現在では町田康がいます。

さて。

文章を磨くなら、
日本文学だけではなく、
海外文学の翻訳モノでもぜんぜんOK。

というのも優れた文章・文体の力というものは、
翻訳されたくらいで消えるような、
ヤワなものではないからです。

フローベールだのチェーホフだの、いろいろ列挙しようと思いましたが、
趣味的になるので割愛します。

まあ近現代の純文学を読む習慣をつけるのは、
思考を高める意味で重要です。

ひとりだけ紹介するならば、トルストイ

デッサンの力。

言葉によって何かの骨を見出し、
輪郭を書きとめ肉を盛っていく。

その底力の強さにおいて、
トルストイこそ文学史上最強なのは、
間違いないでしょう。

翻訳はこちらのものを。
日本語の文章として素晴らしいものです。(全4巻)

また文章という身体を鍛える為には、
実は、詩を読むのが最高です。

特にリズムのとり方。
文章に呼吸を持たせる句読点や改行の魔法。

思わぬ言葉同士の組み合わせ。
語彙の生かし方。

言葉の硬度。

特に戦後以降の現代詩。
なんでもいいですが、例えば。

有名どころの、このあたり。
最上級のコピーに近いものであることがわかると思います。


私が心酔する反骨の詩人金子光晴は、
実際に化粧品会社のコピーライティングとデザインも担当していました。

さて、最後になりました。

「世界最高の文章家は誰か」と問われると、

私は「武田百合子」と即答します。

カルト的に愛される作家で『富士日記』という、
ファンは何冊も読み潰し、一生リピートして読み続ける程の本を遺した人です。

今回は私の一番好きな
この旅行記を推しておきます。

気軽に読める楽しい内容ですが、
無垢で曇ることを知らぬ観察眼から生まれた、
極限まで推敲された文章の硬度たるや。

何度も唸り、何度読んでも決して飽きることはありません。

ミニマムな言葉でどれだけの事を表現できるか。

それを考えるための最高のテキストなのは間違いないです。

以上。















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