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父の日に思う -うちのこれからの親子関係ー
男三人兄弟の家庭で育ったことから、何度思い返しても”殺伐とした”家庭内であったように思います。母は多少は努力はしたのでしょうが、父母共に毎日忙しく、とても”潤い”に繋がることに労力を割けなかったのでしょうね。これはもちろん子供にも責任が大きい、申し訳なかったです。
というわけで例えば父の日のような記念日に、果たして自分は何をしたのか?今更ながら忸怩した思いにしかならず、どうしようもないですね。父母、兄弟の誕生日、父の日、母の日、両親の結婚記念日(これは一度も認識すらしたことがない!)、、、高校卒業後すぐに一人暮らしを始め、まあそれを言い訳に、せいぜい電話でお茶を濁したことは、さすがにそのくらいは記憶にもあるのですが・・
そんな自分を棚に上げまして、それでも今では、まあこれはごく”まともな!”家内の影響で、それなりに記念日は家庭内では重視して毎年毎年を過ごしてきています。ありがたい!まあそれでも「父の日」は「母の日」に比べたらたぶんどこだって位置付けが違うし、記念日を分けることが一種のいじめに感じたこともあります。韓国のように「父母の日」とすれば、父親の顔も随分立つのに、と意味不明に思ったことも。
それでも今年は、父の日と結婚記念日が重なったことから、うちの子供二人も、結構気合を入れてもらいました。ありがとう! 父の日単独のときはどうだったか、、、忘れました(笑)。
さてさて、記念日は別にして、ごくごく普通の親子の関係となると、自分の場合は、とにかく休みがほぼないような両親で、問題はたくさんあったのかもしれませんが、それでも「子供を思う」気持ちには一遍たりとも疑念を持ったことはないし、今でもココロの中にはっきりとそれは残っています。
それでは自分はどうでしょうか?こういうのは自己評価と他者評価との乖離はいかにもありそうな内容で、そうはいっても直接聞いてみるのも、うまく機会ができないとなかなかできません。まあ、自己満足でもいいや。親が自分にしてきたことと、類似なことは、まあ何とかできてきたのかなあ、と思っています。
トシを取って、何かを「しめる」ことが必要になったとき、例えば会社員生活を引退するとき、「ただ終了」するのはいやでした。非常に我儘な心境ながら「継承」を、たとえ少しであっても、何かを残す形にできれば、とずっと思ってきました。何といっても自分が全身全霊を傾けてきたたぶん汎用と思える何か。
これをレビューしていくと話が膨大になるし省略いたしますが、会社という組織の中では自分の思う通りにいかなかったことが、家族の中で、「継承」ができたのではないか、と思うとき、それは間違いなく最高に幸せではないかと思います。
例えば自分の親が自分に対して「思ってきた」気持ち。これを、同じだけの純度で伝えられる。親子の関係なんてそれだけでいいじゃあないか。そんなふうにも思います。
いや、でも実はそうでもないのですね。これは贅沢なところなのかもしれません。何かは、父はできなかったことを、自分はぜひやり続けたいこともあります。
「常に同じ目線で競合しあう」
子供って、いとも簡単に親を追い越していくものなんですよね。親が5年かけて努力してきたことを、1年であっさりと上のレベルに行っている!正直かなり悲しくなります。でも、これたぶん「ごまめの歯ぎしり」といわれてしまうのでしょうが、それでもただいつも手をこまねいていたくもない。結構真剣に張り合いたい分野だってあります。例えばフルマラソンへの挑戦。もちろん自分のために走るのですが、こころのどこかには「負けないぜ!」といった気持ちもあるのかも(笑)。いずれにしてもあらゆる気力の源泉であるのは確かです。
子供は間違いなく成長するにつれて親元を離れていきます。基本的なところで、強く(そしてやさしく)生きていってもらえると思っています。そのうえでの「親子関係」なのですが、高度に微妙な領域の中で、離れていても、どこかで繋がったところは残せていけるといいなあ、と思います。父の日に電話などいらないから(笑)。