夜を撫でる手
早朝。
ひんやりとした心地よい気配に、目を開ける。
薄っすらと青みがかかった静謐な空気の中、ぼんやりと周囲に目をやると、部屋が樹海になっていた。
ベッドを中心として半透明の植物達が所狭しと生態系を構築し、淡い緑色に発光する粒子が海中のクラゲのように漂っている。苔むした布団から身を起こしあくびをする俺の横を、光る小魚の群れが泳いでいった。
「あたりだな」
素晴らしい目覚めだ。
昨日は大小様々な虫達が部屋中で蠢くダイナミック蟲毒の壺。
一昨日は奇々怪々な見た目の植物菌類が悠に狂い咲く奈落に堕ちた腐海100年目、ってな印象だったから余計嬉しい。
しかし、苔と一体化した枕元の時計を拭い、絶望。
「くそっ、一限ッ」
ベッドから跳ね起きる。
一人暮らしは寝坊だけが弊害だ。
手早く準備をしてリビングに出ると、テーブルの上には冷えた朝食。
「ごめん帰ってから!」
鍵かけて、と叫びながら玄関を飛び出た俺の背後で、カチリとドアのロックが掛かった。
なんとか乗った電車の中、息を整えつつ外を眺める。
高層ビルに巻き付く大蛇と、樹木で形成されたダイダラボッチ。
遠目だったが、手や尻尾を振ってきたので礼を返す。気の良い奴らだ。今日の巡回は向こうだし、少し立ち寄ってもいいかもしれない。
緩やかな停車。
車内に目を戻すと、空席。誰も座る様子がないのでドッカリと腰を……滑り込んできた子猫の首根っこをつまみ、再度席を空けゆっくりと腰を降ろす。首元を触るとタグ、飼い猫か。
瑠璃色の子猫をぽんぽんと撫でながら、ふと顔を上げた。
プシュー、と閉まる扉。その向こうに、
顔の輪郭が曖昧なナニカがいた。
白いワンピース姿にドブ色の瘴気がよく映える。
震える指先は周囲の人達の喉元を、眼球を、額を透過し、その奥を撫で付けているようだった。誰も、その事を気にも留めていない──。
違う。
見えていないだけだ。
電車はもう動き出してしまった。
「……また遅刻とか、めんどくせえぞオイ!」
【続く】