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失望のスタートライン

命あるものは いつか亡くなる。
そのいつかは 突然であることも多い。

日本において人が予期された死を迎える可能性があるのは30代で約3割
(40代で50%。50〜90代を過ぎると65%

つまり、7割は突然であり、思いもよらない最期だったりするのだ。
突然の死の方が可能性が高い。
ちゃんとお別れをして、心の準備もして、物や事や人間関係など整理して、最後を迎えられる可能性の方が断然少ないのだ。

でもなんとなく自分が死を迎える時のイメージは、穏やかにゆっくり寝そべっているそんな想像をしないだろうか?
それは現実的には、3割以下かもしれない。
でも、それでも人は、向き合いたくない。

実は死が身近であっても、向き合うと辛いから、向き合いたくない。
他のことに興味を繋ぎ止めて、時間を費やしている方が「楽」なのだ。
人には感情があるから、辛い。
そして重い感情の特性は粘着質であるから、サラっとしていない。
感情は日々生まれ、知らずに執着している「生」に。

生きたいと心から願い、今日を生きたら、どうなると思う?
明日が来ないと知っていて、今日を生きれたら、どう感じると思う?
生きてて良かった。生きた心地。存分、充分、十二分、幸せと言い切る人もいるだろう。

確実に存在する「明日」は誰にも補償されていないのだ。

無意識に「生」に固執し生きている人は
無意識に「死」に向き合うことを避ける。
みな始まりの細胞から、赤子の身体を形成するところから、
死にむかって進んでいるのだ。

この向き合いたくない現実は
「他の魂の旅立ちを見送るタイミング」によって学ぶのだ。

私にとって初めての人の「死を見送る」出来事は後悔だった
おばあちゃんに直接、ありがとうと言えなかった。まだ話したかったことがあったのに、守ってくれてありがとう。嬉しかったって伝えればよかった。

病気だって分かっていて、見送る側の準備期間はあったのに、気づいていなかった。向き合ったことがなかった、あんなに後悔するほど伝えたいいう気持ちが自分の中にあるのに気づいていなかった。

そして、ペットや友人や家族。さまざまな「死を見送る」出来事の度に、
準備をするようになっていった。
それでも、それでも、まだ、まだ、足りなかった。
最期の最期まで愛を与えたかったのに、真っ白になってしまった。
当たり前に明日が来るなんていうのは、ただの日々の奇跡だ。
そんなのもう、とっくに知っていたはずなのに。
どうして忘れてしまうのだろう。
言葉として知っていても心に体になぜ、刻めずに忘れてしまうのだろう。
日々を「1日1生」として、目の前にいる魂にありったけの愛を注ぎたかったのに、最後の最期に覚悟がなかった。

こういうとてつもない後悔と辛さによる体験は「死」によってもたらされる。そして、何度も深い学びを授けてくれる。

改めること。大切なことを今一度、胸に刻みスタートする。

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