法学の旅〈4〉〜道徳違反は罰せられるか?〜
「かんぱーい!!」
何年かぶりに、地元の友達(甲)から連絡があり、たまには居酒屋でも行って一緒に飲もう、というお誘いがあった。最後に甲と会ったのはいつだったか。それすらも思い出せないほど久しく会っていなかったが、学生の頃から仲が良く、大人になってからも、ときおり連絡のやり取りはしていた。甲は大学を卒業して、すぐ地元の企業に就職した。そして、1年ほど前から、ワイが住んでいる東京に転勤してきた。そういえば、東京で甲と会うのは、これが初めてだ。
「なあ、お前、大学のとき、法律の勉強してたよな?」
「してたで。てか、甲も一緒の法学部やったやろが」
もうすでに甲は酔っ払っているのか、改めて聞くほどの事ではない質問をしてきた。まだ飲み始めたばかりで、1杯目のビールだというのに。甲のやつ、東京の水が合わないのか、かなり疲れているようだ。
「あ、そうやったな! 俺はお前と違って、ほとんど大学に行ってへんかったからな」
「そうそう。俺は甲の『ノート』代わりとして、おもんない大学に真面目に行ってたんやで。まあ『バイト代』はちゃんともらってたから、楽して金儲けができてラッキーやったけど。あっ、すみません、日本酒の熱燗を1つ!」
酒のペースが上がってきたワイは、未だに1杯目のビールをチビチビ飲んでいる甲を尻目に、店員に追加注文をした。ワイと同じで、甲もなかなかの酒豪なのに、どうも様子がおかしい。
「おい、甲。お前も、酒、なんか頼むか?」
「うん? 俺はいい」
「なんやそれ。昔はもっと飲んでたやろ」
「昔はな。社会人になると、学生の時みたいには行かへんねん。んで、さっきの話の続きやけど」
さっきの話とは、どの話だろうか。聞き返す間もなく、甲は話し続けている。
「お前に聞きたいことがあって、今日は飲みに誘ってん。法律を勉強してたお前の意見を、是非聞かせてほしい」
「なんやねん」
「その前に、酒、なんか頼むか?」
「さっき注文したわ! ちゃかすんやったら、俺は帰るで」
「すまんすまん。あんな、俺の後輩に、挨拶ができへんやつがおるねんけど」
「うん」
「そいつのこと、殴ってもええか?」
「アカンに決まってるやろ」
「なんでや?」
甲の唐突な、取り留めもない話しで、こっちが面食らってしまった。
「逆に聞くけど、挨拶せえへんぐらいで、なんで殴るねん? まさか、『正当防衛』とか言うんちゃうやろな」
「アホ抜かせ! 俺かて『正当防衛』ぐらいは知ってる。やられたら、やり返してもええってやつやろ?」
「まあそんな感じやな。せやったら、どういう理屈やねん」
「挨拶なんか、人間の基本中の基本やろ? 道徳っちゅうか、礼儀のカケラもあらへん奴には、鉄拳制裁しても、問題ないんとちゃうか?」
「その人は、道徳に反する行為をしてるから、殴ってもいいっていう理屈なんか?」
「せや。道徳には『人を殺してはいけない』とか『人の物を盗んではいけない』っていうのもあって、それをした奴は、逮捕されてるやん」
「それは、道徳とは別に、『殺人罪』とか『窃盗罪』っていう法律があるからや。『挨拶しない罪』っていうのは、この世にないやろ?」
「まあ、たしかにないけどやな」
「法律と道徳の違いは、法律は外的な行為を規制するのに対して、道徳は内的な思想を規律する。そして、両者の決定的な違いは、サンクション、つまり制裁があるかどうかや。法律は制裁があるけど、道徳にはない。つまり、挨拶せえへんっていう道徳に反する行為をした人に対しては、何の罰もないねん」
「なんやそれ。そんなん大学で習ったか?」
「習ったわ! 法学部生にとっては、基本中の基本やで。だから、甲がその人を殴ったら、逆に警察に逮捕されてまうから、やめとけよな」
甲は、ワイの話しが腑に落ちていないのか、1杯目のビールを一気に飲み干して、ドリンクの追加注文をした。いつもの甲に戻ったみたいだ。
「ったく、なんちゅう世の中や。そいつは『おはようございます』『お疲れさまです』も言わへんし、『ありがとうございます』すら言わへんねんで? どう思う? 俺らが学生の頃やったら、こういう奴は、間違いなく先輩にボコられてたけどな」
「昔はそれが当たり前やったけど、時代は変わってるねん」
「ちょっと注意しただけで、『それ、パワハラですよ?』とか、僕は時代に守られてます、っていう横柄な態度に出やがるねん。腹立つわ。なあ、どうしたらいいと思う?」
「どうもできへんよ。その人はそういう人って、割り切るしかないんちゃう?」
「ったく。お前は昔から優等生くんやな」
堰を切ったように、甲の酒のペースが上がっている。2杯目のハイボールを軽々と飲み干し、次は何を飲もうかと、メニューを見ているかと思ったら、何かを思い出したかのように、急に視線をワイの方に向けた。
「ところでお前、いま何の仕事してるんやっけ?」
(終)