風景の中で生きてきた
昨日は義務役で七股池公園の草刈りや生垣の剪定を町内総出で行った。雨続きで実施が危ぶまれたが、雨に降られることなく約一時間半の作業を無事終えることができた。隣近所の人たちと世間話をしながら汗だくで作業をした。コロナ過で家に閉じこもってばかりいたので、みんなとの会話が楽しくていい気晴らしになった。三々五々に解散した後、遊歩道をのんびり一回り。久しぶりの日差しで明るい七股池の風景を眺めた。
独りになってあらためて考えてみると、これまで生きてきた道のりには必ずその時々の風景というものがあった。風景の中で生きてきたことに気付く。
目の前にいる相手の背後には必ずその時に過ごした風景というものがあった。その風景の中で相手とのかかわりがあった。
変わらない風景もあれば、姿かたちが跡形もなく変わってしまった風景もある。時が経ち、風景が変わる様に心のありようも変わるもの。
記憶に残る風景の中の自分は当時のままであるような気がするが、やはり時を経た分、当時の自分を想う今の自分がいる。
まあ、なんというか風景の中で生きてきたことで自分自身というものが育まれてきたともいえる。生まれてから死ぬまで風景に支配される。風景の中で出会いと別れをくりかえしていろいろな感情を動かし、動かされているのだと自覚させられる。風景の中で、いかに自分が小さいものであるかを思い知らされる。
風景を眺めることを忘れたとき人間の思い上がってしまっている危うさを感じてしまうのは大げさか。