馬の骨 これも一種のマイノリティー か
数年前、セルフのガソリンスタンドで、外国製の白い大きなオープンカーが颯爽と入ってきた。”プッ”とクラクションを鳴らすと、二人の店員が作り笑顔で出てきて、ひとりは給油を、もう一人はその横で笑顔で立っている。「今どき?」という光景である。
20年くらい前まではヤクザと成金のオヤジ、成金ババアがわざわざセルフの店で見せびらかすように店員に給油をさせることがあったが、今どきそんなバカはいないだろうと思っていた。こんなのがいるんだと。今どきとはいえ、こういう連中が残っていても、実は不思議でもなんでもない事なのだが、目の当たりにすると、やっぱりこういう時代錯誤の人種が存在することに驚嘆してしまう。
この光景を見てあらためて考えてみるというのも変だが、かつて身分制度というものが日本に存在していた頃、武士という身分があった。明治以降は士族と言われ、大名クラスになると華族などともいわれた。なんだかいかにも位の高そうな身分であるため、お家柄というのもさぞかし代々続いてきたかのように錯覚してしまうが、大名も元をたどれば三代、四代前はヤクザと大して変わらないものだったはずだ。
小さな集落で喧嘩の強い奴がお山の大将になり、集落同士が縄張りや食料や水利を争って喧嘩する。勝ったほうがまたこの二つの地域の大将になる。それを繰り返していくうちにいつしか豪族と呼ばれるようになっていくのだ。海外の歴史の中で貴族のような代々何百年も続いてきた家系がどうだったのかは全く知らないが。徳川も豊臣も細川も毛利も、およそ戦国大名の殆どは喧嘩の強い、喧嘩上手なヤクザ(悪党)がのし上がってきたようなもので、貴族としての土台が無いものだから戦後、華族だの士族だの財閥だのが簡単に解体されてしまったのかもしれない、というようなことを誰かが言っていたような気がするが・・・。
今のヤクザが大名になれるかどうか知らないが、一般市民との持ちつ持たれつの関わりがなくなってしまって完全に世の中から孤立している状況ではお気の毒だが大名になれるなどとは誰も、本人も思わないだろう。
誰からも頼られることもなく、慕われることもなく、ただ忌み嫌われているだけで、ヤクザという小さな集団の中で、虚勢を張り続けていくしかない。先細りの人生を送るしかないのだが、ではヤクザというものがなくなってしまうかというと、これもまた無くなりそうにはない気がする。
人という生き物が持つ多様性というか、ちょっとどこかが足りない人種でも生きていけるようになっている。マイノリティーと言われる人たちからは叱られるかもしれないが、ヤクザもヤクザという生き方しかできない一種のマイノリティーなのかもしれない・・・やっぱり違うかな。人種といった方がいいのかな。できれば絶滅してほしい人種である。
しかしこれまたよくよく考えてみるとヤクザも我々も大した違いはないかもしれない。粘菌が迷路を進む動画は面白い。迷路をスタートして見事ゴールに到達するまでの粘菌の動きを見て、本当に見事だと思うが、到達するまでにはいくつかの行き止まりで立ち往生して死んでいく菌もあればゴールにたどり着く手前で行倒れた菌の死骸が累々と迷路をたどった形として残っている。たどり着いた菌にばかり目が行くがその手前ではあまたの菌が力尽きているのだ。
あ、精子もそうだった。卵子にたどり着けるのはたったの一個。その他は全部挫折するしかない。
やっぱり生き残れるのは頂点に立ったものだけなのだ。