民話という史実
まずはこの話からしなきゃならんだろうと思う。
知的・精神障害のある男性が、自治会の役員らに障害者であることを書面に書かされ自殺したというニュース。自治会は市から送られてくるものも含め、住民の個人情報を管理する立場にある。会員、非会員にかかわらず、災害時に支援を要する住民のためにいろいろな情報を管理しているはずだ。
自殺した男性は自治会から強要され、自ら障害を持っていることを事細かく書かされ、晒しものにされたことになる。この地域の自治会が昔からそういう意識を持っていたのか、あるいはたまたま今の役員の資質なのか判らないが、一度でもこのようなことが起きれば自治会の存在意義を問われるのは当然だ。
こういう事件が起きたということは他団体や民生員との連携もちゃんと機能できていなかったということだろう。また、場合によってはこの地域住民の意識も問われかねない状況に陥るかもしれない。
このニュースに限らず、「何故?」と首をかしげたくなるようなことをする自治会も現実に存在する。自治会は住民のためにあるものであり、すべての住民が同じ方向を見ているわけではないことを十分に承知したうえで、出来るだけ総意に近い形で難しいかじ取りをしなければならない。
この事件はその難しいかじ取り以前に、常識を逸脱した行動をとってしまったことでこの地域の歴史に汚点を残すことになる。
いつか自治会役員の経験談を書こうと思っているがなかなか話をまとめることができない。掲載できるようになるには、まだしばらく時間がかかると思う。
残る歴史と抹殺される歴史
大体、我々の見聞きする歴史というのは、ほぼ全てといっていいほど権力者(勝者)が残した記録であり、勝者の論理と都合で書かれているものだ。京都の歴史は平安京に始まり、東京の歴史は江戸に始まった。
遠野物語りを始め、地方に残されている多くの民話は突飛で、猟奇的でグロテスクな話が多い。
それは勝者の手によって抹殺されたり、陰に隠れて表に出られなかった者たちが辛うじて残したもう一つの歴史のような気がする。
それは弱ければ弱いほど、貧しければ貧しいほど、狂気に満ちた残酷な歴史的事実が語られているのではないかと思ったりする。
昔の子供たちはこれらの話を聞かされ、その土地にまとわりつく不条理を学び、生きるための知恵を身に着けていったのだろう。
平和と豊かさを基盤としたモラルの中でしか生きたことのない我々には到底受け入れることのできない、目を背け耳を塞ぎたくなるような話が、情報が発達した世界のあっちこっちで、日本国内のあっちこっちで、残酷な事実がたくさんあるらしいことを実は感づいてはいるのだが、知るのが怖くて見て見ぬふりをしている。
極限に置かれた人間がどんなことをするのか、極限に置かれていなくても、人の目の届かないところで人間がどんなことをするのか。モラルという縛りから解き放たれた人間がどんなことをするのか。実はみんな分かっている。
昔も今も変わらない人の営み。
残酷だから、子供が真似するから、トラウマになるから、心のケアなんていう言葉でごまかす。
ベトナム戦争の報道ですべてを見せてしまったことで反戦運動が起きた。アメリカはその反省のために、湾岸戦争では厳しい報道規制で戦地の悲惨な状況を見せる機会を奪ってしまった。その風潮は日本にも広まって残酷なシーンは一切報道されなくなり、「臭い物には蓋」で、極限の中で人間がどんなことをするのかを知ることも出来ず、建て前だけの社会でそれが当然のこととして生かされているのが現状だから今、人の痛みの分からない人間が増えてしまった。
痛みを知ることで自制できていたのが、それが判らないために手加減ができなくなっている。
私たちの年齢の人たちが、みんな知っているビアフラ戦争。このビアフラも今や歴史から消えつつある。反乱軍、暴徒、分離主義者などと、戦争に勝った政府軍から呼ばれていたわけだから負けたビアフラという名詞は歴史から消去されることになるのは当然のことなのかもしれない。が、ビアフラのあまりに悲惨な話も忘れ去られようとしている。ガリガリに痩せこけた体に腹だけ空気を膨らませたようなビアフラ難民の子供の姿に、取材に訪れた記者たちは普段から世界中の難民の子供たちの前で、自分がちゃんと立って歩き回っている後ろめたさを感じるのに、ビアフラ難民の子の眼にまったく微震もないような状況にまで来てしまって、かえって記者自身がどこか安堵を覚えるくらい子供の眼に精気というものが無になっていると言っていた。
いくら映像を残そうとしても使われなかったり消去されれば、結局なかったことになってしまうのだ。
歴史は結局、勝者の手によって作られる。
同じ失敗を繰り返さないために「歴史から学ぶ」という言葉があるが、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のが人間であり、結局学ぶことも出来ずに「歴史は繰り返される」ことになるのだろう。そして国内でも近年になって民間で守ってきた地域に残されていた戦争の資料を残すことができなくなってきているということらしい。
ビアフラや湾岸戦争の記憶も民話の世界で残ることになるのだろうか。
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