第3話:小さな嘘

陽翔に出会ってから、20日が過ぎた。

「180日」と刻まれていた彼の頭上の数字は、今は「160日」に変わっている。
少しずつ、けれど確実に減っていくその数字。

20日という時間は、僕にとってはあっという間だったけれど、陽翔にとっては、どれほど貴重な時間だったのだろう。
それを思うと、胸の奥に小さな棘が刺さるような痛みが広がる。

「遥くん、聞いて!」

その日、陽翔はいつもより少しだけ声を弾ませていた。
ベンチに座ると、すぐに話し始める。

「病院の先生にね、褒められたんだ。数値が少し良くなってるって。」
「……そうなんだ。」
「うん。だから、もう少し元気になれるかも。」

陽翔は笑顔でそう言った。
その笑顔は、いつもと同じように明るくて、柔らかくて。
だけど、どこか無理をしているように見えた。

彼の頭上に浮かぶ「160日」という数字は、微動だにしていない。
増えもせず、減り続けている。

僕はその嘘に気づいていた。
だけど、それを指摘することはできなかった。

「……よかったね。」

僕が言えたのは、それだけだった。

その日の陽翔は、いつも以上によく喋った。

「遥くんって、意外と真面目だよね。」
「そうかな。」
「うん、すごく真面目。でも、たまにはもっと肩の力を抜いてもいいと思う。」
「……陽翔こそ、無理しすぎじゃない?」

その言葉に、陽翔は少しだけ驚いた顔をして、それから小さく笑った。

「遥くん、鋭いね。」
「……そう?」
「うん。でも、本当に大丈夫だから。」

その笑顔には、小さな震えが混じっていた。

陽翔はその日、いつもより少し早く帰ることになった。

「今日は病院に行かなきゃいけなくてさ。」
「……分かった。」
「明日はちゃんと来るから。絶対ね。」

彼はそう言って、手を振りながら公園を後にした。
その背中を見送りながら、僕は彼の頭上の「160日」という数字を見つめていた。

――明日も、きっと彼はここに来る。

そう信じたかった。
そう信じることでしか、僕は自分を保てなかった。

次の日、僕はいつものように公園へ向かった。

季節は少しずつ進み、空気がわずかに冷たく感じるようになった。
遠くからは学校帰りの子どもたちの声が聞こえ、道端には落ち葉がいくつも散らばっている。

公園へ向かう途中、僕は何度もポケットの中のスマホを握りしめた。
陽翔の連絡先を知らないことが、今さらながらに悔しかった。
「明日も来る」と言った彼の言葉を、何度も頭の中で繰り返す。

――きっと、いつものベンチで待っているはずだ。
――今日も、いつものように笑ってパンを齧っているはずだ。

僕はそう自分に言い聞かせながら、公園の入口に足を踏み入れた。

だけど、そこには――誰もいなかった。

いつものベンチは空っぽで、噴水だけが変わらず水しぶきを上げている。
風が吹き、ベンチの上には枯葉が一枚、ひらりと舞い降りた。

「……いない。」

喉の奥が乾いたように、言葉が途切れる。
僕の視線は何度も左右に揺れ、周囲を探した。

ベンチの周り、噴水の裏、花壇の隣――。
陽翔の姿は、どこにもなかった。

その瞬間、胸の奥で何かがひび割れた。

「陽翔……。」

彼の名前を呼んでも、返事が返ってくるはずはない。
頭の中で「160日」という数字が、脳裏に焼き付いて離れない。
それが今にもゼロになってしまうのではないかという恐怖が、僕の足を震わせる。

――病院だ。

陽翔が通っていると言っていた、あの小さな病院。
僕はポケットのスマホを握りしめ、息を詰まらせながら走り出した。

街の風景がどんどん流れていく。

信号が赤でも足を止める余裕はなかった。
行き交う人々が僕を見つめていることにも気づかないまま、ただ走り続ける。

――どうか、無事でいて。

その言葉だけが、頭の中でぐるぐると渦巻く。
走り続けているのに、時間が止まったように感じる。

僕は何度も息を切らし、足を止めそうになりながら、それでも前に進んだ。

やがて、小さな病院が見えてきた。

建物は白くて小さくて、周りには静けさが広がっている。
窓からは明かりが漏れていて、かすかに機械の音が聞こえる。

僕は病院の扉を押し開け、受付に駆け寄った。

「高瀬陽翔、という人が……ここにいますか?」

僕の声は震えていた。
胸の中に冷たい何かが広がって、息が苦しかった。

受付の女性は一瞬だけ驚いたように目を見開き、それから小さく頷いた。

「彼は、今病室にいます。でも……意識が――」

その言葉の続きは、もう耳に入らなかった。

病室の前に立った。

白い扉の向こうに、陽翔がいる。
扉を開ける手が震えて、僕は目を閉じて小さく息を吸った。

ゆっくりと扉を開けると、そこには――。

陽翔がベッドに横たわっていた。

点滴のチューブが腕に繋がれ、青白い顔が枕に埋もれている。
心電図のモニターが、規則正しい音を刻んでいた。

「……陽翔。」

呼びかけても、彼は答えない。

それでも、僕はそっと彼の手を握った。
冷たくて、細くて、頼りない手だった。

「なんで、嘘をついたの…。」

僕の声は震えていて、涙がこぼれ落ちた。

その瞬間、僕はただ――彼の隣で静かに立ち尽くすことしかできなかった。

(つづく)

→ 次回:「見えない数字」
遥が見えなくなったもの。それは安堵か、それとも新たな恐怖か――。

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