第9話:夜明けの光
病室のカーテン越しに、夜明け前の淡い光が差し込んでいる。
外はまだ静かで、街は目覚めの瞬間を迎えていた。
陽翔はベッドの上で穏やかな寝息を立てている。
その顔は、まるで小さな子どものように無防備で、安心しきった表情をしていた。
僕は彼の手を握ったまま、窓の外をぼんやりと眺めていた。
夜が明ける瞬間は、いつもどこか切ない。
空が少しずつ色を変え、闇がゆっくりと後ろへ引いていく。
――「また明日」なんて言葉が、もうこれ以上繰り返せない日が、すぐそこまで来ているような気がしていた。
陽翔が目を覚ましたのは、日が完全に昇った頃だった。
カーテン越しに差し込む柔らかな光が、彼の顔を優しく照らしていた。
「おはよう、遥くん。」
「ああ。おはよう、陽翔。」
彼は少しだけ目を細めて笑い、僕の顔をじっと見つめた。
「遥くん、今日も来てくれてありがとう。」
「……言っただろ。当たり前だって。」
その言葉に、陽翔は嬉しそうに目を細める。
朝の光が彼の髪を照らし、その瞳に小さな輝きを宿していた。
陽翔の目はどこまでも透明で、静かで、それなのにどこか遠くを見つめているようにも見えた。
「ねえ、遥くん。今日、一緒に公園に行かない?」
僕の心臓が、少しだけ大きく跳ねた。
「……公園?」
「うん。あの公園で、また噴水を見ながらパンを食べたいなって。」
その言葉に、僕は何も言えなくなった。
――今の陽翔には、きっとそんな余裕はない。
――そんなこと、僕が一番分かっているはずなのに。
それでも、彼の瞳には小さな光が宿っていて、それを否定する勇気は僕にはなかった。
「……分かった。行こう。」
病室を出る準備には、思った以上に時間がかかった。
看護師さんが陽翔の体調を確認し、医師が細かい指示を出している。
僕は陽翔の小さなバッグに必要最低限の荷物を詰めながら、時折彼の方を振り返った。
陽翔はベッドの上で静かに微笑んでいて、まるで小さな旅に出る子どものようだった。
車椅子に移る時、陽翔の身体はとても軽く感じた。
その軽さが、どこか切なくて、僕は言葉を失った。
「遥くん、準備できた?」
「ああ、行こう。」
病院の廊下をゆっくりと進む。
車椅子のタイヤが静かに床を滑る音だけが、僕たちの間に響いていた。
外に出ると、冷たい風が僕たちを包んだ。
朝の澄んだ空気が肺の中に広がって、どこか新しい一日の始まりを感じさせる。
陽翔は目を細め、静かに空を見上げた。
少しだけ口角を上げて、小さく息を吐く。
「外って、こんなに気持ちよかったんだね。」
彼の言葉は、まるで遠い場所から届いたように感じた。
それでも、僕は頷くことしかできなかった。
公園に着くと、あのベンチは変わらずそこにあった。
噴水は今日も変わらず水を跳ね上げ、陽射しがそれをキラキラと照らしている。
僕はゆっくりと陽翔の車椅子をベンチの隣に停めた。
「……戻ってきたね。」
「うん。」
陽翔は少しだけ顔を上げて、噴水をじっと見つめる。
風が彼の髪を揺らし、木々の葉が小さな音を立てていた。
僕はバッグから、あのパンを取り出した。
――彼が、初めて僕と一緒に食べたパンだ。
「ほら、食べられるか?」
「ありがとう、遥くん。」
陽翔はゆっくりとパンを手に取り、小さくひと口齧った。
その動きはとてもゆっくりで、でも確かなものだった。
「……美味しい。」
その言葉に、僕は小さく笑った。
僕たちはただ、噴水の音を聞きながら、ゆっくりと時間を過ごした。
「遥くん。」
「……何。」
「僕ね、最初は君に会った時、なんでこんなに話しかけてくれるんだろうって思ってた。」
陽翔はゆっくりとパンを置き、噴水を見つめる。
「でも、君と話している時間がすごく楽しくて、すごく安心できたんだ。」
僕は何も言えず、彼の言葉をただ聞き続ける。
「遥くんはね、僕にとって、希望だったよ。」
「……そんなこと、言うなよ。」
声が震える。
涙が、堪えきれずに溢れそうになる。
「僕、遥くんのこと、すごく好きだよ。」
その言葉が胸に突き刺さる。
声にならない何かが喉の奥で詰まり、涙が頬を伝った。
「……僕も。」
それ以上は何も言えなくて、僕たちはただ噴水を見つめ続けた。
病室に戻ると、陽翔は少し疲れた顔をしていた。
彼をベッドに移し、毛布をかける。
「今日は、本当に楽しかった。」
「……そうか。」
「ありがとう、遥くん。」
僕は彼の手を握りしめる。
その手は少しだけ冷たかった。
次の日、朝陽が病室に差し込んだ。
窓の外は明るく、穏やかな風がカーテンを揺らしている。
陽翔の手は、冷たくなっていた。
病室には静けさだけが残り、外では小鳥たちが楽しそうに鳴いている。
僕は彼の手をそっと握りしめた。
涙が頬を伝い、シーツにぽたりと落ちる。
「……また明日。」
最後の言葉が、小さく病室に溶けていった。
(つづく)
→ 次回:「春風に揺れる花」
遥と陽翔の物語、その先に続く小さな後日談。