見出し画像

身体と心の二重構造を探る。西洋は表層に注目する中、東洋は無意識の基底の構造を重視。瞑想で自己を深く体得する「修行」の意義を重視します。https://rreey.xyz/suki/kinou/#1

身体、そして身心の関係は二重の構造をもつ。
一方には、大脳皮質を中枢とするいわゆる感覚
―運動回路と、それと機能的に結びついた外界知覚と運動感覚、
そして思考作用からなる「意識」の領域がある。
それに対して他方には、
自律神経系に支配される内臓諸器官と、
それに機能的に結びついている情動および内臓感覚がある。
湯浅は
前者を「身心関係の表層的構造」と呼び、
後者を「身心関係の基底的構造」と呼んでいる。
基底的構造の一部は、
感情という形で、意識の領域に現れているが、
しかしその大部分は「無意識」の領域に属している。
それは通常はその姿を現さないが、
たとえば夢や催眠状態において、
あるいは神経症、精神病において顕在化することがある
(市川浩の言う「錯綜体」と同じものが考えられていると言ってよいであろう)。
このような理解を前提にした上で、
湯浅は西洋の身心論がたいていの場合「表層的構造」にのみ目を向け、
「基底的構造」に対して十分な注意を払わなかったのに対し、
東洋の身心論では、
むしろ「基底的構造」の方に重点が置かれてきたと主張する。
東洋の身体論ないし身心関係論について論じるためには、
この身心関係の二重構造、
とくにその「基底的構造」に注目する必要があるというのである。

東洋思想の特徴
たとえば東洋の伝統的な宗教においては
修行の一つの方法として「瞑想」が重視される。
私たちの通常の生活のなかでは
大脳皮質およびその機能と結びついた意識活動(身心関係の表層レベルでのはたらき)
が中心的な役割を果たしているが、
瞑想はそのはたらきをむしろ低下させ、
逆に、基層にある身心のはたらきを活発化させようとするものだと考えられる。
そのことによって、無意識領域に沈んでいる根本的な情念や情動を表面化させ、
解放し、解消すること、
そして自己の身心をコントロールすることがめざされている。
湯浅によれば、それは、
心理療法などでセラピストが用いる治療法にも通じるところがあるが、
しかしそれと同じではない。
治療では病気の状態から健康状態への復帰がめざされるが、
それに対して瞑想においては、
情動や情念に動かされる日常のあり方を離れて、
その彼方にある本来的自己(仏教であれば「三昧」(samadhi)ということばで表現されるあり方)
へと至ることがめざされる。

湯浅は、東洋思想と西洋の哲学とを比較したときに、
前者に見いだされる特質を
まさにこの瞑想を含む「修行」のなかに見いだしている。
つまり東洋思想の独特の性格は、
知を、
単に対象の分析から理論的に知られるものとしてではなく、
自己の身心全体による
「体得」ないし「体認」を通して把握されるものとしてとらえる点にあると考える。
そのような観点から湯浅は「修行」を、
「自己の身心の全体によって真の知を体得しようとする実践的試み」と定義している。

西洋の哲学においてはたいていの場合、
身体や欲望、感情などは知から排除されてきたが、
東洋の伝統思想の根底には、
事柄の真相は知だけでとらえることはできず、
むしろ身心全体によってはじめて把握されるという考え方があった。
しかも、そのことを単に知るだけでなく、
実際に「修行」を通して
自分自身のものにすることがめざされてきたと言ってよいであろう。
そこに東洋思想の大きな特徴を見いだすことができる。

 

↑この文章を
160文字以内で
フック、ストーリー、アクションの流れ
の紹介文にして↓

https://chatgpt.com/

身体と心の二重構造を探る。
西洋は表層に注目する中、
東洋は無意識の基底の構造を重視。
瞑想で自己を深く体得する
「修行」の意義を重視します。
https://rreey.xyz/suki/kinou/#1

いいなと思ったら応援しよう!