伴走者になりたい私
元同僚の一言
先日、元同僚と食事をしました。その時、私が作った名刺を渡しました。
名刺の肩書は、『不登校親子の伴走者』『高校教員の伴走者』です。その伴走者という文字を見て、『学年通信にも伴走者って書いてましたよね?』
びっくりしました。私はその時からこの言葉を意識してつかっていた覚えはなかったのです。しかし、その元同僚はとてもこの言葉が印象的だったらしく、覚えていてくれたようです。
教員をしていて、感じたことは生徒が主役。生徒自身が自分の人生を選び進んでいく力をつけなければいけない。そして、生徒にはとてつもない可能性があり、教員の想像をはるかに超えた活躍を見せてきます。教員が、生徒の限界を決めてはいけない。そして、私自身が未熟者なので、人を導くなんてできない。生徒が決めた道を、時には励まし、時には休憩を促しつつ、一緒に進んでいくことだけしかできないと思ったからです。
それは、私自身が柔道で指導者の在り方について色々教えてもらったからだと思います。その中で、選手とのかかわり方は、選手自身が考え行動できないと、結果が出せないと知ったからです。
そして、選手が自分で考え行動するためには、選手とともに走る伴走者という立ち位置が一番よいのではないかと考えるようになったのです。
だからこそ、伴走者という言葉が、私の在り方に一番しっくりくる言葉なのかもしれません。
やり方を知らないのとできないは違う
私の大学の恩師は、非常に優秀な指導者で尊敬する人です。私の生き方、考え方に非常に影響を与えてくれました。私が指導者として生徒を連れていき、恩師の元で練習を見ているとき、恩師に呼ばれました「チョク、あれをみてみろ」
ある指導者が、「なんでできないんだ」と選手を叱っていました。部活動でよくある風景でした。
「あれは最低の指導者だ」と恩師は言いました。私はその理由を尋ねました。
「できないのは、指導者ができるように教えれていないんだ。選手だってやり方を知っていたらできるんだよ」「選手にできないという前に、自分の指導方法を反省しないといけない」
私は、この言葉が深く突き刺さりました。
その時、一人の生徒のことを思い出しました。私はその生徒が良くなってほしいと思い、叱ってばかりでした。そして、「なんで、こんなこともわからないの。できるでしょ」って言っていました。ある日、その生徒は「わからない。自分だってやりたいと思ってる。わからない」って大泣きしました。
その生徒が泣いていたのは、私の指導方法が悪かったんだ。自分が未熟だから生徒は、やり方がわからなかったんだ。
非常に後悔しました。
それからは、生徒がわからない、できないのは自分のせいだ。自分がブラシュアップしないとと思うようになりました。
そして、やり方がわからない生徒にやり方を教えると自分でやるようになり、どんどん自分で成長していく姿を見せてくれました。
それと、もう一つ私の苦い記憶があります。教師になりたての時、先輩教員から言われたことがあります。
「そんなの教員なら当たり前だろ。なんでお前はそんなこともわからないんだ」
言われたときも、思い返した今も、やっぱりそれは教えてくれないとわからないことだよ。って思う。私は、指導者として同じような思いを生徒にさせていたかもしれないって思いました。
それ以来、その生徒がどのようにしたらできるようになるのかだけを考えるようになりました。
生徒の力を信じる
私は、通信制高校に入ってきて、勉強ができないという生徒の多くがやり方を知らないだけだと考えています。実際、私が一緒について最初のやり方を教えると多くの生徒が自分でやるようになるからです。
「もう高校生なんだから、これくらいはできて当たり前だと思う」この言葉にどれだけの生徒が傷ついてきたんだろうかと思います。私が教師なんだからわかって当たり前といわれたのとき感じた以上に傷ついていると思います。
ただ、先生たちはいろいろついて教えたらそれが当たり前になって、自分でやらない。依存してくるかもって言われますが、それは違うと考えています。
私は、教員向けのコーチングの講座を受けた時、「先生がかわいそうな生徒だと思った瞬間から、生徒はかわいそうな生徒になる」「問題児はいない、問題を抱えた生徒はいる」と言われました。
はっとしました。私にも経験があったからです。その講座を受けてから、私は「生徒を信じる。生徒は自分の在りたい姿を考え成長する」とマインドセットしてから、生徒と接すると生徒が変わってきました。
私が新入生との面談時間はだいたい10分程度とりますが、場合によってはもっと短くなります。生徒が教員と話したいと考えてくれている場合は、話時間いっぱい聞きますが、一番短い面談は多分数十秒でした。
その生徒は、ずっと中学時代不登校で、ほとんどしゃべらない生徒でした。私は「あなたは学校に来ているし、話も聞いてくれているし、何にも私は問題ないと思ってる。あなたは何か心配なこと、不安なことはあるかな」って聞きました。生徒は、首を横に振ったので、「ならばこの時間は終了。何かあったら言ってね」といって、面談を終えました。この生徒もそうですが、受け持った生徒に対して、「あなたを心配している」というメッセージは、「心配な生徒」を作ってしまう可能性があると思ったから。私は「気にかけてる。あなたのことみてるよ」というマインドをもって面談に臨んでいます。だから、生徒がまた、不登校になったらどうしようとか考えずに行こう。この子は、自分なりに学校に登校しようと挑戦してる。本人が登校したいと考えてくれたら、登校するだろうと考えていました。結果は、自分のペースで通いながら、徐々に登校日数は増えていきました。
この生徒が好きなものと私が好きなものが一緒だったので、そのことを話すと、生徒は話すのではなく文章で私のきいていたことに対して返答してくれました。
答えは自分の中にある
コーチングでは、答えはクライアントの中にあるといいますよね。教員も生徒に答えを与えれるわけでないです。生徒が答えを考える情報を与えてあげることはできる。
自分の中にある答えをさがしている生徒に対して、寄り添う。傾聴する。答えを出すために生徒にとって必要かもしれない情報を与える。時には生徒を鼓舞する。
あくまでも、生徒が主体的に考え行動すること。私はそれを信じ、見守り、答えを探す生徒と一緒に走る。これが、私が教員として考えてきたことです。そして、それは生徒に対してだけでなく、同じ教員にもできるし、周囲の人たちに対してもできること。
伴走者になりたい
生きづらさを抱えている人、頑張りすぎてしまう人の、私は伴走者になりたい。なぜなら、走りすぎてボロボロになってしまう人がたくさんいる。そういう人には、はしっているときに周りを見渡してごらん。すこし、ペースを落としてみよう。今まで見えなかったものみえるかもしれないよって、声をかけてあげたい。
まだまだ私は、伴走者として成長できると信じ、活動していきたい。
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