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    楽園の暇 ― もんたん亭日乗


<その6> 「あっちから会いに来てくれたアイドル」 ①レスリー・チャン


   エレベーターのシーンが好きだ。
   扉が真ん中から左右に開く、何度も開いたり閉じたりを繰り返す、その度に見える情景が微妙に違う、開くまでの時間、閉じるまでの時間を、私たちはカメラと同じ視線で、好奇心や恐怖心を最大限に膨らませて待つ……。
   映画にもドラマにもエレベーターの名シーンはあれど、私にとってこの映画にかなうものはない。『君さえいれば/金枝玉葉』(香港・1994)。
 エレベーターの外側で俯き加減に佇む男は、敏腕音楽プロデューサー。オーディションで採用し育ててきた若い男性歌手のことが頭を去らない。彼は悩んでいた。まさかあいつを愛してしまったのかと。俺、ノンケなのに。でもこんなに会いたいのはなぜ?
   チン! エレベーターの扉がゆっくりと開く。そこにはドレス姿の彼?(ん、彼女?)が乗っていて、少女のような瞳でこっちを見つめ、言うのだ。あたし、本当は女なの。
   カメラはエレベーター内からのショットに切り替わる。そこには女を見つめる呆然とした男の顔が。丸く見開かれた目、半開きの腫れぼったい唇。その瞬間、雷に打たれたようになり、全身に電流が走った。香港人俳優、レスリー・チャン(以下、レスリー)に、私はそのとき「堕ちた」。

   映像で彼を見たのはその時が初めてではない。93年のカンヌ映画祭パルム・ドール受賞作『さらば、我が愛/覇王別姫』で、京劇の女形を見事に演じていた彼に、すでに感銘を受けていた。『君さえいれば』だって、エレベーターシーンは最後も最後。おとぎ話みたいなコメディーなので、そこまでは普通にゲラゲラ笑って見ていたのである。しかし恋とはタイミング、突然炎の如くである。ラストシーンのエレベーターで「雷」、その瞬間「電流」である。理由はない。
   真夜中にそのレンタルビデオを見たのが、96年夏。翌年1月、レスリーはコンサートで来日する。彼はアジアで絶大な人気を誇るアイドル歌手でもあったのだが、数年前に歌手を引退、しかしまたいきなり活動を再開し、日本にも来ることになったというのだ。これって、運命? つい昨日まで好きになるなんて思ってもみない男に恋に落ちた途端、あっち(香港)からこっち(東京)にわざわざ来てくれるのよ。なんてこった。レスリーファンは日本にも多く、チケット難が予想されるらしい。私は目の色を変えて奔走し、なんとか手に入れた。
   音楽にも衣装にも中性的な危うい色香が漂うステージ、妖艶という言葉がこれほど似合う男はいるまい。香港歌手の現地コンサートでは握手タイムがあると聞いてはいたが、彼はそれを東京でもやった(日本の主催者にとっては想定外)。「カモーン、トーキョー」とステージ上から呼びかけるレスリーの元へ、多くの女たちが吸い寄せられるように駆け出して行って場内は騒然。嬌声と警備員の怒号が飛び交っていた。突然の出来事に足が止まって駆けつけられなかった自分を今でも悔いている。
   かくして私は一人の香港スターに、今風に言えば「ぬまって」いった。

香港スターのコンサート(記事内容とは無関係です)

   それまで、誰かの「熱烈なファン」だった経験はない。マーク・レスター(小学生時)とか中村雅俊(中学生時)とかジミー・ペイジ(高校生時)とか好きだったけど、「堕ちる」のとは違う。こっちも子供だったし。
   時は流れて90年代後半、30代後半となった独身労働者の私。バブルの影響もまだ残って円高、自由になる小金もある、そこそこ知恵も、経験もある。香港は4時間のフライトで行けるゴージャス、かつカオスに満ちた国際都市。香港スターに溺れたら最後、行かずにいられようか。30代後半になってからのアイドル追っかけだが、生誕地訪問は欠かせない。
   97年の暮れ、その地に降り立つ。7月の中国返還後も50年後まで香港の「高度の自治」は維持されることになっており、英国の植民地時代に築かれたであろう東洋と西洋の絶妙な融合は、まだまだ魅力を放っていた。映画好きには、街角のどこもがお気に入り映画のロケ地のようだし、地元香港人のリズミカルな広東語は、映画のセリフを彷彿とさせて楽しかった。

街角で見つけたレスリー(2000年8月)

 当時の我が座右の銘は「願い事は口にすれば叶う」で、誰彼にレスリーが好きだ好きだ、と言いまくっていたら、次の来日時、某週刊誌でインタビューできることになったり、レスリーも出演する現地の「香港アカデミー賞」授賞式に潜入できたりした。「レスリーに会いたいオーラ」が私の全身から立ち昇っていたに違いない。湧き上がってくる強いパッションに突き動かされ、どこへだって走り出していけた。それ以外のことは何だって二の次にできた。
   それをあの日が奪った。

 2003年4月1日。東京・目黒川の桜は満開だった。夜桜を見ながら川縁りをそぞろ歩きしていたとき、友人からのメッセージが、携帯の光る画面に突然映し出された。
「レスリー、死んだって」
   香港島にあるマンダリンオリエンタルホテルの高層階からの転落死だった。遺書を身につけていたことから自死とされたらしい。本当の理由はわからない。自身も愛したはずの香港の空に向かって、彼は飛んだ。世界的にはエープリル・フール、日本的には桜の咲き誇る春の一日に。享年、46歳。
   人気スターの死は香港中を深い悲しみに包んだ。当時、香港ではSARSの集団感染が大発生していて、黒いマスクをつけた葬儀参列者の映像は、よりその悲劇性を高めた。あれはその後に訪れる香港の未来を、暗示していたのかもしれない。

   返還から17年目の2014年、反政府デモ「雨傘運動」で、香港市民は自由への意思を示した。2019年3月の「逃亡犯条例改正案」に反対するデモから始まった行動は、市民の4人に1人以上が加わるというさらに大きなうねりとなり、死人も、多数の逮捕者も出た。高度の自治の維持はどこへやら、中国は香港民主化運動を本気で潰しに出た。東西二つの文化がごちゃ混ぜになった玩具箱のようだった香港は、あっという間に大国の論理に飲み込まれ、香港市民が謳歌してきた自由は、風前の灯となっていく。2021年8月、デモを主催してきた団体が解散し、香港は香港でなくなった。いくら大好きな香港に戻してほしいと憤っても、あくまでも私は通りがかりの旅行者にすぎず、その香港のために何もしなかった、できなかった無念を、告白せねばならない。
   大規模なデモが起こる前の2018年の秋、今思えば虫の知らせか、私は香港を旅している。デモは行われていたけれど、まさかこんな未来を想像することもなく、呑気に香港を楽しんだ。香港人がもう一度自分たちの香港を取り戻す日が来ないならば、あれがおそらく私にとって最後の旅になるのだろうと思う。

   レスリーは今、虹の彼方でどうしているだろう。あなたの仲間の多くも、闘いの拳をおろした。香港で生きていくために、きっと誰もがそうしなければならなかった。あなたは現在の香港を見なくて幸せかな。空に飛翔した季節、日本の桜の下でいつもあなたを思い出しているよ。私のアイドルである以上に、あなたは煌めく宝石箱のような香港の、煌めくスターだった。

   *不定期(たぶん月1)掲載です。



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