楽園の暇 ― もんたん亭日乗
<その5> 101年前の9月、荒川河川敷で
真夏のような陽射しが照りつける9月最初の土曜日、私は東京・墨田区の荒川河川敷にいた。そこでは101年前に起きた関東大震災で、その混乱に乗じて井戸に毒を入れた、放火した、などの流言飛語により虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼式が行われていた。この河川敷もまさにその現場のひとつだという。当時の政府はそれを隠蔽したので、今も真相はわかっていない。そして現在の政府も明らかにしようとはしない。
たとえば昨年11月、朝鮮人虐殺を裏付ける旧陸軍省の新文書が防衛省内で発見されたが、遡る8月、当時の松野官房長官は会見で「政府内に事実関係を把握できる記録が見あたらない」と述べていた(毎日新聞2023年12月14日記事)。また、小池東京都知事は就任2年目の2017年以降、毎年震災当日の9月1日、墨田区横網町公園で行われる朝鮮人犠牲者追悼式に、それまでの知事は送っていた追悼文送付をやめた。
私の年代(1960年生)以上なら聞いたことがあるだろうか。千駄ヶ谷で震災の翌日、朝鮮人に間違われて殺されそうになったという演出家・俳優の千田是也(センダ・コレヤ)の芸名が、千駄ヶ谷のコレヤン(korean)から来ていることを。朝鮮人は一般的に濁音がうまく発音できないので、見分けるのに、濁音の多い「十五円五十銭(じゅうごえんごじゅっせん)」と言わせた、という話も(うまく言えなかったら殺す、のだろうか)。しかしそんな話を誰も知らなくなる日は来る。隠蔽されたままでは、あった話も無かったことになっていく。歴史が繰り返すならば、再び同じことは起きる。いやすでに世界のあちこちで悲劇が繰り返されている。都合の悪いものに蓋をすることで、人間は過去だけでなく、未来をも失う。
追悼式の会場で販売されていた分厚い証言集を手に取った。編著者は「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」(のちに「追悼する会」に改称)の82年発足時のメンバー、西崎正雄氏。この証言集を編んだ彼の思いが冒頭に掲げられている。大震災から長い月日が経って今では当時者の話を聞くことは叶わないが、出版済みの自伝・日記・郷土資料などから「関東大震災時の朝鮮人虐殺」に関する証言を徹底的に収集することはできるのではないか。そして集めた証言を地域別にまとめて手作り証言集を作ったところ、東京のあらゆる場所で「朝鮮人暴動」の流言が飛び、朝鮮人が住んでいた地域では必ずと言っていいほど、虐待・虐殺事件が起こっていたことがわかってきた。そして証言には体験した本人にしか語れない「具体性」があった。
震災から百年を迎えた昨年、大幅な増補の上出版されたこの証言集は、記述が確かに具体的で、個々の体験の凄惨さは目を覆いたくなるほどだが、百年後の私たちは目を背けず、心に刻みつけなければ、と思う。
そもそも私が朝鮮問題に関心を持ったのは、大学生の頃だ。すでに政治の季節は終わった大学で、政治や社会の矛盾にいちいち物申している男子がいて、それが私の初ボーイフレンドだった。2年前、意外な事件から「旧統一教会」が再問題化したが、当時世間を騒がせていたその研究会と称する大学サークル「原理研」のメンバーに、路上でわざと勧誘されては論破するのが趣味、という変わった奴だった。四国の田舎から出てきた文学少女風情が、その影響で次第にフィクションよりノンフィクションやルポルタージュを好むようになり、青臭い脳内はさまざまな問題意識や社会の矛盾への怒りではち切れそうになっていた。そんな問題意識のひとつが、「在日朝鮮人差別」だった。
とはいえ、書籍のみの知識で頭でっかちになっただけの私に、目前の世界を変えることなどできるわけはなく、青春の真っ只中でモヤモヤする日々なのだった。そうこうしていると、NHKで初の韓国語・朝鮮語講座「アンニョンハシムニカ〜ハングル講座」(各方面に気を遣い、こういう講座名になった)がスタート。まずは言葉を学ぼう、それが差別を解消する一歩だ、と私は飛びついた。テレビ講座を一年やったが少しも上達しないので、翌年から語学学校に通った。遅く来て早く帰る先生に嫌気がさし、別の学校を探した。新しい教室で、尊敬する先生との出会いがあり、生涯の友も得た。肝心の語学は身につかないままだし、差別を解消する一歩は今なお遠いけれど、次に踏み出すきっかけにはなった。見える世界は少しだけど変わった。そしてその時見えた景色は、今につながっている。
そんなわけで、北朝鮮にも行ったし(このコラムの第1回参照)、この夏は、荒川河川敷にいる。若き日の小さな一歩が、私を今ここに連れてきている。河川敷の上には高い位置に巨大な橋がかかっていて、その大きな影が強い日差しを遮り、酷暑の8月には味わえなかった爽快感があった。追悼式では主催者が「殺されるかもしれない恐怖」と「殺してしまうかもしれない恐怖」が背中合わせであると語った。ナチスによるジェノサイドと現在のガザでの暴力を思い起こすまでもなく、その言葉はざらりと胸を澱ませる。加害者になる恐怖にまで向き合わなければならないのだとしたら、人間が生きるとはどれほど苦悩に満ちたものであるだろう。加害側に立たないために、どんな努力が必要なのだろう。
さまざまなメッセージを投げかけられ、1時間ほどの追悼式がお開きとなった、と思う間もなく、背後から賑やかな鉦や太鼓の音が聞こえてきた。チャンゴ(杖鼓)と呼ばれる打楽器や、チンやケンガリと呼ばれる銅羅を手に、鮮やかな装束をつけたグループが動き始めたようだ。朝鮮半島に伝わる豊作を祈願する伝統芸能「風物(プンムル)」の担い手たちだ。各人が民族楽器と一体になり、輪になって歩きながら演奏する。
ある光景が鮮明に蘇った。
40年近くも前、初めて韓国を旅した。水原にある「民俗村」という観光施設の、昔の農家を模した建物の庭で、民族衣装を身につけた男たちが、太鼓や鉦の音に合わせて歩いていた。鮮やかな色のベストを着て原色のリボンをたすき掛けにし、ある者は頭の上にボンボンのような花を飾り、ある者は円状の帽子の先から白く長いリボンを垂らしていた。やがて声を掛け合いながら円を作り、太鼓に合わせて歩調を整える。刻む独特のリズムが次第に速さを増す。男たちが頭から垂らしたリボンを器用にクルクルと回し始める。それにつれて彼らの体も回転する。全身がいつしか頭のリボンと一体になっていき、柔軟な彼らの体は地面スレスレに宙を舞う。あのときの光景と、心と体が一緒に踊り出していくような気持ちをはっきりと思い出す。
当時見たのは、観光用のプロたちだっただろうが、河川敷にはそこまでシャープな動きをする人はいない。老いも若きも、男も女も、輪になって心地良さそうに体を弾ませる。私の足もつられてリズムを踏んでいた。装束をつけた人の輪に飛び入り参加する者、彼らがまた遠巻きに眺める人を誘い込み、円は何度も崩れたりちぎれたり。おそらく国籍もさまざまだろう。40年前の民俗村で、私は恥ずかしくて円の中に飛び込んで行けなかった。今は恥も外聞もないが、すっかりアジュンマ(おばさん)となった足は容易に前に出ない。でも心は解放され喜んでいるのがわかる。眩しい陽射しの中で、こんな追悼の仕方があるんだと感じる。
82年から続いている追悼式で「プンムル」を始めたのは91年からだそうだ。辛い追悼式なのになんでそんなに楽しげなことをやるんだと、最初は誰もが不思議に思ったが、今では恒例となった。初めてこの会に参加して、プンムルを楽しんでいる私は、うん、なんて素敵、と思う。こうやってポンポン弾んで、101年前からずっとこのあたりを彷徨っているかもしれない死者と出会ったら、今を生きている私は、もう誰にもあなたたちのことを忘れさせませんからね、と声をかけよう。彼らがこれからは笑ってだけいられるように。明るい空のもとに行けるように。動き出さなければ、願い続けなければ、世界は変わりなどしないから。歩こう。隣の人の手をとって、心地よい風の吹く方へ。
*参考図書:西崎雅夫編著「増補百年版 関東大震災朝鮮人虐殺の記録ー東京地区別1100の証言」(現代書館刊)、西崎雅夫編「証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人」(ちくま文庫刊)
*不定期(たぶん月1)掲載です。