楽園の暇 ― もんたん亭日乗
<その8> 「あっちから会いに来てくれたアイドル」 ② ラウル・ゴンサレス
2002年6月4日の夜、どこでどうしてた?
私は渋谷で映画を見ていた。今はもうない渋谷パンテオンの巨大スクリーンで、香港映画『少林サッカー』をごくわずかな観客とともに。お腹が捩れるほど笑って外に出たら、街はえらい騒ぎになっていた。日本で初開催のサッカーW杯、初戦でベルギーと引き分けて初の勝ち点1を日本が獲得した直後だったのだ。
サッカーにまるで関心がないどころか、猫も杓子もサッカー、サッカーと日本中が騒ぐのにうんざりしていて、『少林サッカー』鑑賞は私なりの抗議行動だった。だからその喧騒を横目で見ながら、わずか12日後に、出場選手に「堕ちる」なんてまさか予想もしてないのである。
そんなアンチ気分で臨んでいたにもかかわらず、「開催国のメリット」なるものを私は毎日のように感じることになった。仕事から帰ってきてテレビをつけるとやっているのである、毎晩2試合、ゴールデンタイムに。世界中から集まってきたサッカーの上手い子たちが、真剣にボール蹴ってるのを、半ば強制的に見せられるのである。時差ゼロ、なんである。わざわざ「見ない」選択をすることもないかもねと、私はさっさと抗議スピリットを放棄した。
それまでろくに見たことのないサッカーというスポーツが、単純に面白かった。高校まで野球大好き少女だったが、攻撃と守備が一瞬にして入れ替わる醍醐味に痺れた。しかしそれより何より、選手がカッコよかった。子供のころ、体育の授業や運動会で活躍する男子に憧れるような、あんな感じ。鍛えられた肉体を持った、あらゆる人種、あらゆる民族のイケメン君たちが、素敵すぎた。
でもこれは、入口に過ぎなかったのだ。
6月16日。決勝トーナメント第1戦、スペインーアイルランド戦を見た。大好きなU2を産んだ国だし、旅行したこともあるしで、アイルランドを応援することにした。早々にスペインが得点したが、その後点が入らず、逃げ切りを図ってフォワードを下げた直後にPKを取られ、土壇場で同点にされた。試合は延長へ。フォワードのいないスペインは、イケイケドンドンのアイルランドに防戦一方。完全に采配ミスだ(すでに上から目線な私になっていた)。その時、スペインベンチをカメラがとらえた。同点にされる前、負傷退場していたエースストライカーがいた。
「あ〜〜」
という顔で、彼は頭を抱えていた。その時私は、彼の心の声を聞いた。日本語だったけど。
「あ〜〜〜〜、もうダメだ〜。エースのボクがいない間に、負けちゃうんだ〜。終わるんだ〜、ボクのワールドカップ(泣)」
絶望が彼を覆っていた。悔しさと諦めと悲しみとが全身から滲み出ていた。まるで泣きべそをかく少年だった。その瞬間、私の体を電流が貫いた。かつて香港スターを見つけた時と同じ雷に、再び直撃されたのだった。試合が終わるまで幾度もカメラは、頭を抱え身悶えするエースの姿を映し出した。その度に私も身悶えした。そして「堕ちた」ことを知った。
それまでの彼を覚えていない。おそらくそれまで何度も、ボールをゴールに突き刺してきたであろうストライカーとしての彼を。私が堕ちたのは、泣きべそをかく少年の姿に、だったから。その人の名が、スペインのエース「ラウル・ゴンサレス」であることは、無得点のまま延長戦が終わり、PK戦でスペインが勝利したあと、知った。しかし怪我のため次の韓国戦に出ることはかなわず、チームも敗れたため、結局、彼のW杯はそこで終わった。あの心の叫びは現実になってしまった。
私の新しい恋が始まった。
まずはサッカー全般に無知すぎる自分のレベルを高めることから。「スペインにもJリーグみたいなリーグがあって(スペインの方が80年くらい先発だけど)、CSで中継がある」ことを知り、慌ててスカパーを契約した。欧州と南米の前年のクラブチームの王者が世界一を競う「トヨタカップ」が毎年、中立地の日本で行われる(2002年当時)ことも知った。そして恋した男は、欧州王者、スペインの「レアル・マドリード」の選手であることも。
ほらね、やっぱり!
わざわざあっちから来てくれるのよ。マドリードから、W杯の決勝が行われたばかりの横浜・日産スタジアムに。
こうしてまた、我が新アイドルは、恋に落ちた私に会いに来てくれたのであった。レアル・マドリード(以下、マドリー)は当時、銀河系軍団と呼ばれた超豪華メンバー。ありとあらゆる手を使ってチケットを入手し、駆けつけた。ロナウドやジダンやベッカムのいるなかで、私のスターは誰よりも燦然と輝いていた(この頃にはサッカーそのもの“も”好きになっていた)。
このあとはますます、<その6>で書いた香港スターと同じ「沼」への道を辿ることになる。翌年、初のスペイン旅行。マドリーの聖地「サンチャゴ・ベルナベウ」でリーグ戦を観戦。練習場で選手の入り待ちまでした(ラウルには会えなかったけど)。翌年からは、いつか会った時に話せるようにと、スペイン語を習い始めた。その年の旅行ももちろんマドリードへ。サッカー好きファミリーの家にホームステイし、ママに語学を学びつつ、スタジアムに連れてってもらった。
さらに次の年、ラウルは再びあっちから会いに来てくれた。日本のクラブチームと親善試合(という名の営業)のため、マドリーは東京に1週間ほど滞在したのだ。雑誌で見つけた、大のマドリーファンのスペイン人が経営するレストランに行ってみて、驚いた。ラウルと映る店主の写真が誇らしげに飾ってあるではないか。当然、食いつく私。
「ラウル、うち、来るよ。今回も来るんじゃないかな」
彼の言葉に全身の血が沸き立ったのは言うまでもない。店に1週間通った。ラウルは来なかったけれど、マドリーのスタッフが来店し、店主ともども、選手のサイン会に招待してくれると言う。通った甲斐があった。愛のなせる技!
サイン会は、都内のあるホテルの宴会場で行われるはず、だった。が、予定は前触れもなく変更され、なぜか私たち(マドリーファンの店主と常連たち)だけが、どさくさに紛れて、気がつけばスター選手たちがわらわらいる空間にいたのだった。どうしてそうなったのかはまるでわからない。おそらく選手たちも。常連さんのひとりがロナウドだかに背中を向け、サインをねだっていた。そうだ、私もウカウカしていられない。狙いを定め誰よりも早く“彼”に近づいた。そしてこんなことになった!
ちなみに私は、有名人のサインってものに興味はないが、ラウルが息もかかるほど近くにいて、私のちょうど胸の辺りに自分の名を書き入れている状況はまさに「天にも昇る心地」だった。
それからも毎年のようにスペインを訪れた。FCバルセロナとの伝統の一戦「クラシコ」も、バルセロナで大枚払って見た。途中出場したラウルの背番号7をしっかりと目に刻んだが、それが、生で彼を見た最後になった。その後、マドリーを去り、代表にも選出されなくなったと思ったら、スペインは欧州選手権を2連覇し、W杯でも優勝(昨年の欧州も獲った)。ちょっと切ないけれど、私は2002年に雷に打たれて以来ずっと、日本代表よりも何よりも、スペイン代表を愛している。ずっとずっとファンでい続けると誓う。
ラウルは2015年にニューヨーク・コスモスというクラブで現役を引退。現在はマドリー下部組織の監督を務める。トップチームの監督として戻って来る日が待ち遠しい。かつてベンチで泣きべそをかいてたボクも、すでに47歳。その昔、全身絶望オーラに包まれた少年のようなあなたに、心かき乱された女が極東にいたことを、今度会えたらスペイン語で伝えよう。あなたによって広がった世界は、とてつもなく美しかった。
そして2024年、また次なるアイドルが現れることになる。懲りないね。
*不定期(たぶん月1)掲載です。