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【短編小説】#19 君子、危うきに近寄らず

瀬田蒼はとても繊細な人間だ。近年HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)という呼称で日本でも注目されている気質のことで、本人もそれについては思いあたるフシがあるようだ。蒼はとにかく何でも分析し、損得を計算し、自分にとって害となる敵には近づかない用心深い性格である。

なくしものは探し出さないと眠れないし、本来こうあるべき物事とその理由が一致しないときはとにかく考えて考えて自分の納得する答えを導き出そうとする。落し物があれば黙って見過ごせないし、誰かに嫌なことをされたら長い間頭から離れずにもやもやし続ける。簡単に受け流すということがとにかく苦手なようだ。

* * *

「あれは私が悪かったのかなあ。いや、やっぱりどう考えてもシステムが悪い。それにあんなの相手にしなきゃいいんだ。けど相手は今頃私のことをどう思っているんだろう。眠れているんだろうか?」

私はこの夏、苦い体験をした。とあるサイトで自分とはまるで接点のない女子大生の日記をのぞき、自分と何が異なるのか、彼女の何が人気を得ているのか知りたくなってついフォローしてしまったのだ。読み始めた頃は特に何の印象もないただの日記だったが、タイトル一覧を眺めてみるとなんだか様子がおかしい。『明日への私へ』『あのときの自分へ、今の私が褒めてあげるよ』。なんだこれ?

気構えながら読みすすめると、どうやら自分に自信のない女子が勇気を出して声をあげてる日記だったようだ。気になる日記には似た考えの人間が集まる。私へおすすめされる記事はいつの間にか、自分を肯定して相手も褒めるメルヘンチックな物語しか表示されなくなっていた。誰が何を書こうが他人がとやかく言うことはナンセンスだ。蒼は自分も誰かに干渉されたくないのでそう考えるタイプの人間だった。が話は別だ。そして急を要する。

私はAIに監視されながら自分が最も苦手な人たちに取り囲まれていたのだ。慌ててフォローを外し、流れてくる記事には興味がない意志を送信し、ブラウザを何度リロードしても私を追い詰めるような記事は後を絶たずに視界に飛び込んでくる。AIはそう簡単には私を許してくれない。これは罰なんだ。興味本位でいたずらにフォローなんかしてしまったからだ。私は何度も何度も許しを請い、それから数日が経ってやがてメルヘンな日記は表示されなくなってきた。

・・・ところが。

* * *

「人生で一番大切なのはやりがいだ!」

今度はこんな記事がサイトのトップページに表示されていた。このシステムのロジックはどうなっているんだろう。女子大生の日記への興味のときとは異なる「腹立たしさ」を覚えてついページを開いてしまった。やりがい搾取が問題視されている昨今、どんな人間が時代錯誤なことを書いているんだ。私はこのライターが経営側の人間なのか気になり、注意深く全文を読んでみた。答えはなんでもない、注目を集めたいだけの匿名の棒人間だった。

「人生は愛でもお金でもない。やりがいなんだ。絶対だ!」

顔の見えない陰湿な棒人間の、声高に群衆を扇動するようなもの言いに不信感を募らせながら、私は遠くからその舞台を眺める。賛同するものたちは多くの好意的なリアクションを送り、両手を叩きながら、あるいは拳をふりあげながら彼に向かって賞賛を称えている。気持ちよくなった棒人間は次々と人々を煽る言葉を浴びせていった。戦争が終わり誰でも平等な世の中を目指した結果、刺激を知らずに育った世代の人間たちの瞳にはその姿は神々く映っていた。

それは小さな教祖の誕生の瞬間だった。

私は目を伏せながら誰にも気づかれないように背を丸め、コロッセオのようなまあるい言葉の闘技場を後にした。しめた。教祖に夢中な彼らは誰一人私の姿には気づいていない。私は力尽きて膝をつき、息を切らしながら走ったおかげで脱げそうになった靴の紐を縛り直して周囲を見回してみた。きらびやかなネオンと赤提灯。ぶつかりそうでうまく避ける泥酔客の体を躱しながら、居酒屋街の小道をよろよろと通り過ぎた。あれは何だったんだろう? どこかで見覚えのある光景だ。そうだ、あれは酒場で部下に説教している上司の目だ。そんな上司に心酔している部下は僅かながらこの世には存在しているのだ。

私は道端の石ころを蹴飛ばすと、建物の隙間に挟まった缶ビールの空き缶にカンッと当たった。育ち過ぎた大きなサツマイモのような黒い影がニャーと声を上げながら去っていった。そのお詫びに私は知り合いの猫にあげようと持ち歩いていたキャットフードをそっと地面に置いた。闇の中で黄色く光る二つの目が微動だにせずこちらを見ていた。棒人間もまた、目しか見えない暗闇の中から明日への自分へ声を投げかけているのだろうか?

* * *

「彼」なら私にどんなアドバイスをしてくれただろうか。彼の丸めた丸い背中の姿を思い浮かべながら、私はやっぱりHSPなんだと思い返していた。自分を鼓舞する人、他人を扇動する人、とにかく何でも気にする人。いろんな人がこの世界で生きている。気にしないことで何かが変わるわけでもない。けれど気にしたところでも変わることでもない。それぞれが交わらず、肯定するでもなく否定もせずにこの世界は未来へつながっていくんだ。

「蒼は気にしすぎるんだよ」

ケラケラと笑う彼の姿はもうこの世界には存在しない。今頃彼はどこで何をしているんだろうか?

蒼の気持ちとは裏腹に、彼は「ある世界」で新しい生活をスタートさせることになった。蒼の住む世界と彼の住む世界は、この物語の中であるいは彼の物語の中でつながることはあるのだろうか? 両世界をつなぐ門はすでにこの物語のどこかに出現しているのかもしれない。

君子、危うきに近寄らず。

蒼のHSPな気質ではおそらく近づくことを躊躇うかもしれない。しかし興味本位でつい扉を開けてしまうのも蒼の性格の一部だ。

「やりがいなんだ。絶対だ!」
あの小さな教祖の言葉が蒼の部屋の中を谺する。

「明日の私へ」
自分を鼓舞する女子大生はいま頃くつろぎながらベッドで日記を書いているだろう。

君子の交わりは淡きこと水の如し。

わたしは短い時代を共に過ごした彼との友情を思い出していた。


あとがき
久しぶりに書きました。今回はホラー小説の手法を使ってみたよ。やっぱり読むのも書くのも小説が一番好き。あとこの話から小説のアイキャッチを変更しました。果たして彼女の正体は瀬田蒼、本人なのか!?

※次話も読みたいって思っていただけたらスキをぽちっとお願いします。このシリーズ短編小説ではこの先にスキの数が鍵(キー)となる話が登場します。よろしければぜひ蒼を応援してあげてください。

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