【短編小説】#16 濃霧
ここは関東の北に位置する山深いとある湖。私はある啓示を受けて1泊2日の小旅行でこの地を訪れている。湖畔に立ってみると両手いっぱいに左右に広げた指先の外にまで水面が広がっている。これだけ広大な湖にもかかわらず地図には存在しておらず、ネットでいくら検索しても情報が出てくることはない。
目の前に出現した湖は企業や団体が所有する、私有地の中にある溜池である可能性もなくはない。その場合は地図に載らないことが多いが、もしそうであるならその大きさはせいぜい池や沼である。しかしこの湖は箱根の芦ノ湖や日光の中禅寺湖のように遊覧船が往復できるくらいの大きさだ。私有地という言葉ではとうてい説明がつくものではない。
私がどうやってこの場所を知ったのか。それはある休日の出来事。私は年に1回、1年間まったく触らなかった物を処分するかどうかの会議にかける。議長も出席者も私ひとりなのだが、出席者として物を手にすると捨てろ捨てろと頭の中がいっぱいになる。今度は議長となって保管している理由を再考しあと1年延長するかを冷静に考え、結果まあいいかと処分の猶予が与えられるのである。
そうやって何年も生き延びている物もあるが、その日は押入れの整理をしていると奥から古い紙の手提げ袋が出てきた。おかしいな、こんなものとっておいた記憶がないし、それに今までまったく目につかなかったのも不思議だ。以前家族だった人が同居していた時期にしまっておいたものかもしれない。だとしたら返さなきゃ。紙の手提げ袋を持ち上げて左右に開くと、中から古い地図が出てきた。
リンゴのマークのこの地図に見覚えがあった。私の若い頃は車のナビがまだ発売されていない時代。助手席に座った私はこの地図を見ながらパートナーへ経路の指示を伝えていたことを思い出す。今では考えられないかもしれないけど、助手席のグローブボックスには文字通り手袋のグローブと地図を収納していた時代があったのだ。
その地図のある1ページに三角の折り目がついているのに気付いた。折り目を指でつまみながらページを開くとそこには昔よく二人で遊びに出かけた山の地図が広がっていた。そうそう、若い頃はあの山へよく登りに行ったっけ。山の東側には小さなロープウェーもあり、ちょっとしたレジャーランドも併設されていた。そのうち眩しかった時代は静かに終わりを告げ、やがて観光地として経営危機を乗り越えられず十数年前に施設は閉鎖されたと聞く。ネットの地図で確認してみると確かに施設はきれいさっぱりなくなっていた。
紙の地図に目を戻すと、山の西側に不自然なものが記されていた。航空写真ではないので森林かどうかは確認できないのだが、林道のような道が途切れてその先に大きな空白地帯がある。その空白がもしかすると湖ではないかと思えるある史跡が記されていた。それがダムの建設記念碑だった。もしも、仮にそれがダム湖だったとしても、ダムの表記はなくそこから放出される川そのものが表記されていない。遠い昔に忘れされてしまった過去の遺跡である可能性は十分にあった。
そう思うと私はこの地図がとにかく気になって寝れなくなってしまった。そうしてある夜、深夜ラジオを聞いていると突然臨時放送がはじまりこんな音が聞こえてきた。
実はこの話には続きがあったのだ。コントラバスのような音は小さくなりやがて消失すると、現実に戻されるようにアナウンサーの声で試験放送に切り替わることが告げられた。その時、アナログラジオ放送が混線したようにざらざらとした声で確かに「地図を見て」という言葉が聞こえた。その時はラジオ局の都合でニュース原稿の読み上げテストが混ざってしまったくらいにしか思わず特に気に留めていなかったのだが、地図というワードは日に日に頭の中で渦まきとうとう私の睡眠を妨げるようになっていった。
* * *
週末に運よく宿がとれたので私は少ない荷物をまとめて電車に乗り込んだ。特急が走っていない路線なのでローカル路線を乗り継いで約3時間、途中車内でお弁当を楽しみながら宿がある駅へ着いた。到着時間が遅かったので、その日は目的地へ向かうことなくまずは宿の温泉に浸かって久しぶりの豪華な夕食を楽むことにした。夜も22時が過ぎ、宿泊客たちの熱のこもった喧騒がすっかり静まる。とたんに静寂が訪れ、部屋の窓の外からモーターのような音が聞こえはじめた。おそらく宿の施設のものなのだろうけど、あの時に聞いたバイアスがかかったせいか、ギュイーン、ギュイイーンと唸るような音にも聞こえる。そんな力強くも優しい音色に包まれ、しだいに意識が薄れて瞼の裏には光が映り込まなくなった。
翌朝、弱々しい朝陽の光で目覚めると、まだ朝食までにはかなり時間があることを確認して古い地図を片手にダムの建設記念碑のある土地を訪れた。ホテルには事前にそう伝えておいたので案内されてあった裏口からこっそりと抜け出したのだ。林道は存在していたが、いくら周りを見渡しても記念碑は見つからない。諦めずに道端に目を凝らすと、ずどんと小さなリュックがずしりと重くなった。
目の前には、苔の生えた小さな古い石がある。
石は角に丸みを帯びた墓石のようでもあり、小さいながら一枚岩のようにも見える。そこには判別不能な文字と不思議な生物のようなものが描かれていた。私は歴史や古代史に疎いのでどの時代のものかわからなかったが、のちに宿に戻って調べてみるとそれは室町時代あたりに作られた庚申塚であった。しかしそこに描かれた生き物は何かわからなかった。四肢動物でヘラのような尻尾をもち、ワニのような口吻には牙を携えている。
へぇー、ずいぶんと古い石だなあ。
スマホを構えるとのんきに写真をパシリと撮ってみた。あとで特に見返すことはないけど、気が向いたら友人に送ったりお酒のつまみで眺めてもいいかなあというくらいの感覚だ。タップしてスマホに記録された写真は同じアングルで数枚。ピンボケでうまく取れなかったときのためにそうする習慣ができていた。なので後で見返してもせいぜいコマ送りのようなはずだったのだが・・・
何かが刻まれた古代の石に、正体不明の念を抱きつつお辞儀をすると林道の先にざわっとした気配を感じた。
——この先になにかある。
地図で見た謎のエリアと、目の前の石の謎。その頂点が交わる先に私が立ってる。それは俯瞰で見るとまるでトライアングルを描いているようだった。トライアングルには不思議な力が発生する。直後、目の前に広大な湖の全貌が私の視界に飛び込んできた。
雷鳴のようにゴロゴロと嘶く虎の声。
ゴーっと口から何かを吐き出すような竜の声。
キュィキュィと甲高いタンチョウの声。
どれともつかない声があたりを支配する。
ギュイーン、ギュイイーン。
ギュイイーン、ギュイーーン。
ギュ・・・、ギュイ・・・ン。
私は正体の知れぬその声に急に寒気を感じた。あたりは急激に気温が下がり、初夏の山地とはいえ体感的には10℃を下回っている感覚。これはあれだ、あの感覚に近い。インフルエンザにり患して40℃近い高熱になったとき、寒くて寒くてしかたがなく毛布にくるまるのに、数分もたたずに暑くて汗びっしょりで寝汗をかくあの感覚。
ギュイーン、ギュイイーン。
ギュイイーン、ギュイーーン。
ギュ・・・、ギュイ・・・ン。
しばらく耳を澄ましてみると、あの夜の時のようにこの声に聞き覚えがあることを思い出した。そしてその声の主と思われる何かとは次第に距離が縮まるものの、その個体はまるでドライアイスのように冷たい冷気をまとい目の前でまあるい弧を描いている気配がした。
ギュイーン、ギュイイーン。
ギュイイーン、ギュイーーン。
ギュ・・・、ギュイ・・・ン。
呼吸をするのも苦しくなるくらい、あたりは次第に一歩先も見えない濃霧に支配される。数十センチ前にある杉の幹に手を触れながら、足元を注意深く観察し歩をすすめる。すると次第に彼の姿が朧げに目の前に現れた。
ギュイーン、ギュイイーン。
ギュイイーン、ギュイーーン。
ギュ・・・、ギュイ・・・ン。
おおきな翼のような何かが天に向かって垂直に伸びている。
ピー、ガガガ・・・
——あっ!
突如、アナログラジオの電波のような音が割って入った。
ピー、ガガガ・・・
「お聞きの放送はWラジオです。AMは周波数917kHz、出力100kW。FMは、周波数91.7MHz、出力7kWでお送りしました。」
——あのとき混線していた放送局はここにあったんだ!
ざぶん。
何かが水の中へ潜っていく音がして、あたりはとたんに静寂に包まれた。東の空から太陽の光に照射され周りの全貌が明らかになった。目の前にはさきほどまで見えていた湖の全景はおろか水たまりのひとつもない森林の中に雑草だらけの広場が現れた。代わりに出現したのがボロボロの木材でできた二階建ての建物と、そこから天に向かって何本も伸びた錆びた鉄棒だった。建物の手前には石の門があり、そこに掲げられていたのは「陸軍通信所」の文字だった。
* * *
帰りの電車に揺られながら、悪い夢をお祓いをするように途中の売店で買ったビール缶のプルタブをプシュッと開けた。あの日に聞いたラジオの混線の声の主は、いま現在では地図に掲載されていないこの場所にある湖の跡地から聞こえた。そしてそこは旧陸軍の通信所が存在していたことがあきらかになった。朝から何度も何度も頭の中を整理しようと試みるが、その数だけ疑問が頭の上に現れては消えていく。あの音は、あの声は、今は亡き兵隊さんの声だったのか。それとも・・・
* * *
世の中には自分が理解できない不思議なことがたくさんある。この話をここで話を終わりにしてしまうか、それとも不可解な現象にきちんと耳を傾けるか。私はその先の続きを知りたくて、いま小説を書いている。賢明な読者のみなさんなら、いま私が書いている小説のからくりにお気づきになっているかもしれない。しかしそれが叶わない人のために、私はこれからもう少しより具体的に話を紡いでみようという気になっている。
そうして。私がここで突如告白するのはアンフェアであることは十分に理解している。私が執筆しているこの短編小説「集」は実は1話完結ではなく、すべての話がつながるように設計されたパズルのピースなのである。しかしながら不本意にも私が計画した物語はもうすでに制御不能に陥っている。もしもみなさんがまだ私の短編小説集に興味が残っているのなら、どうか私と一緒に最後を見届けていただきたい。
——そう、なにを隠そう私はミステリ小説ファンなのだ。
* * *
ギュイーン、ギュイイーン。
ギュイイーン、ギュイーーン。
ギュ・・・、ギュイ・・・ン。
ギュ、ギュ、ギ、ガガガガ・・・・・・
突如、周波数が狂いチャンネルが変わる。
きらきら星はついに太陽の明かりでその存在がなかったことにされてしまった。
* * *
——苦しいよ、助けてよ。
肺が塞がれて呼吸が苦しく、ほとんど視力のない瞳はたくさんの涙で溢れていた。