政治の起源 [抜書き]

国家と部族社会の違い。国家は、支配者に権力が集中する。部族社会は、平等主義で、全会一致が原則。国家は、職務と職員が分離している。科挙のような実力主義によって選ばれた官僚が政治を行う。部族社会は、縁故に基づいて採用された親族が政治を行う。

部族から国家への移行は、戦争が主な要因。なぜなら、国家は常備軍を備え中央権力のもとで大規模に軍隊を展開できるので戦争に強い。一方、部族は平等主義なので合意形成に時間がかかる。取引コストが高いとも言える。部族が滅ぼされかねない緊急事態に、部族が権力を集中させて優秀なリーダーの元で団結するという選択肢は当然考えられる。それで国家へ移行した。さらに近代的な国家を建設するために、以下のような経路を辿る。常備軍を備えるためには、徴税史のような官僚が必要となる。さらに、官僚を養成するために読み書きを教える学校が必要となるし、優秀な人材が望ましいので、ただ(その共同体的に)血統が良いだけの人物より、優秀な人材を選ぶため、実力社会になる。したがって、識字率が上がり、権力が分散されていく(独裁制から貴族制、最後に民主制へ)。

部族社会が親族集団を基礎としていること、また後に見るように縁故主義を打破することが難しいことは生物学的に説明できる。それは「同じ遺伝子の数が多ければ多いほど、血縁に対し利他的に振る舞う」という血縁選択の原理があるから。つまり、親子は遺伝子の50%が共通だから、25%が共通のいとこより互いに利他的に振る舞う(親切にする)。血のつながっていない他人は言うまでもない。

なぜ国家が重要なのか。それは無政府の社会を見れば分かる。低い税率は、医療、教育、道路の穴の補修といった基本的な公共サービスに資金が足りない状態を作る。道路や裁判所、警察といった現代経済を支える具体的なインフラもない。ソマリアでは、力を持った政府がいないため、個人が携行式ロケット弾や対空ミサイル、洗車まで保有する。自分の家族を政府が守らない国家では、自分で守る必要があるから。政府が映画の知的財産権保護や不法なコピーを防ぐ力がない(もしくは意欲がない)ナイジェリアでは、映画産業は大急ぎで興行収入を上げなければならない。

宗教は、信仰以上の意味合いを持つ。初期の部族社会においては、人を束ねる際に宗教を使った。先祖(中興の祖)や神という考え方を部族の構成員に教えることで、その旗の下に団結しようという機運を築くことができる。さらに、最も力の強い者であっても宗教的権威には気を遣う事になるので法の支配、つまり権力者であっても法に服するという考え方がなじみやすくなる。この法の支配は、言うまでもなく民主主義の最重要な構成要素で、人口的に作りづらい(中米のギャング国家やアフリカの独裁制など)。

この本を読んだ事で、宗教の「合理的な」面を知ることができて、宗教に対して、見方が完全に変わった。

国家建設にとって戦争は必要条件ではあるが、十分条件ではない。つまり地理も要因の一つ。周囲から隔絶された環境と絶対的な規模も重要な要素。メソポタミア、ナイル川の渓谷地帯、メキシコの渓谷地帯は比較的大きな農業地帯であり、山岳、砂漠、海によって周囲から隔絶されている。隔絶された地形でないと、襲われても逃げることができるので、人口が密集せず、国家も生まれない。したがって、ニューギニアは大きな島ではあっても山岳が多く、人間が居住可能なエリアは少なく、国家が建設できるほどの規模がなかったと分析できる。

具体的には、シュメール人によるウル・ウルクのような都市国家群(メソポタミア)、エジプト王朝(ナイル)、マヤ地域(メキシコ)。

初期国家形成の理論。形成の要因として四つある。一つ目に、単に生存に必要な量を超えて十分な量の資源が必要。資源というのは、狩りの獲物や魚などを指す。二つ目に、社会の絶対的な規模が十分に大きいこと。第三に、周囲から隔絶された環境とまで厳しくなくても地理環境による制約を受けていること。集団の人口密度が上がるから。第四に、戦争のような危機が訪れ、指導者に大きな権力を与えることに部族が合意すること。この理論からアフリカ大陸を分析すると、国家建設が困難なことが分かる。まず、第一の十分な資源について、アフリカ大陸では熱帯雨林気候は8%にすぎず、50%の土地では農業を常時営むことができるだけの雨は降らない。したがって、農業で余剰生産を作ることは難しい。第二の社会の絶対的な規模については、アフリカ大陸には大きな船が航行できる河川がほとんど存在せず(ナイル川下流域を除く)、サハラ砂漠が交易と侵略を障害となり巨大な規模に拡大することが難しかった。インフラとしても、一部の熱帯気候下では雨季乾季を二、三度経ると道路はほとんど使用できなくなる。第三の隔絶された環境については、アフリカ大陸では地形的にはっきりした境界をもつ地域はほとんど存在しない。したがって、支配者が奥地まで行政を敷き、統治することが難しい。

日本が国家を建設する好条件に恵まれていたことがよく分かる。温帯に属し周囲は海に囲まれていたことで、農業も水産業も盛んだった。列島という隔絶された環境にあり、適度な広さを持っている。九州地方や東北、関東、畿内などを、様々な勢力が支配して戦争の危機もあった。さらに海外でも、大陸や朝鮮半島へは航行できる距離なので侵略の危機感もあった。今気づいたが、「海外」という言葉は内陸国では使わない日本独特の表現だろう。

なぜ中国では、強力な中央集権政府が「既定値」のごとく繰り返し現れることになったのか。秦の始皇帝が、春秋戦国時代を制して中国全土を統一したことが、その後の王朝にとってデフォルトとなった。秦では、法家の商鞅が参謀をしており、縁故主義を排した実力主義の官僚制を採用したことから勢力を強めることが出来た。さらに、春秋戦国時代には諸子百家が国々を歩き回り、遊説したことで思想的伝統が整えられた秦が全土を統一したことで、書き言葉が統一され、中国という政治単位が意識された。中国は、強力な国家はあるが、法の支配と説明責任はないという政治文化を持つ。中国には、早くから強力な国家が建設されたため、西欧やインドのような政治権力を制限する宗教的権威は存在しなかったことも特徴の一つ。

したがって、現代の中国共産党の一党独裁は、中国の政治制度から分析すると、既定値であり、中国に法の支配の伝統は無いので、民主主義も根付かないということになる。歴史から帰納的に現代の中国を分析することで、「中国も民主化する」という理想がどれだけ歴史を無視しているかわかる。

一方、インドではなぜ中国のような中央集権化が起きなかったのか。インドは、ヴァルナという身分制度とジャーティという職業集団が政治文化としてある。ヴァルナは、バラモン(僧侶)、クシャトリャ(戦士)、ヴァイシャ(商人)、シュードラ(その他)の身分に分けられる。穢れから近いほど、卑賤な身分とされる。穢れというヴァルナ教の宗教観に沿った身分制度である。その身分制度をさらに細分化した職業集団に分けたものがジャーティである。例えば、バラモンの中でも、葬式を司る者、家庭内の裁判を司る者、王室関係を司る者など細やかに階級が生じるように設計されている。インドでは、政治権力を持つ支配者として軍事力を持つクシャトリャ(戦士)がなることが多かったが、支配者であってもバラモン(僧侶)を力でねじ伏せるようなことは出来なかった。それはバラモン教が、この世は穢れの世界であり、その穢れを浄化する儀式を司る者がバラモンであるという世界観を持つため、バラモンが最も権威を持っていたからである。バラモン教については、さらに詳しく調べたい。インドの特徴としては、宗教的な権威が軍事力や経済力よりも勝り、結果として政治権力が制限され、支配者であっても法に従うという法の支配が確立していたことにある。この点、中国とはアジアの大国であっても全く違う政治制度を持っていることになる。

比較政治学は、ある地域である制度が発達し、ある地域では発達しなかった理由は何かを問う。国家の政治制度を知らず、経済発展やビジネス、開発は成功しない。そこに比較政治を学ぶ意義がある。

イスラム世界の政治制度。イスラム世界には、インドや中国のような確固とした文化は無いが、イスラム教を土台としている点で、どの王朝も多少の法の支配があった。アッバース朝、マムルーク朝、オスマン帝国に共通する点としては、軍事奴隷制度がある。イスラム教徒は奴隷にすることが出来ず、アラブ地域は部族主義が強いため、部族主義を抑えて国家を建設するためにイスラム教徒以外を奴隷として政府高官にする制度である。イスラム教徒は奴隷にすることが出来ないので、オスマン帝国であればキリスト教徒の少年を、アッバース朝であればトルコ民族を奴隷とした。この制度により、官僚制を整え、オスマン帝国は何百年続く大帝国を築くことが出来た。オスマン帝国は、強力な国家と、少しの法の支配を持っていた。

オスマン帝国の制度を知ると、どれだけ縁故主義という人間の性に抵抗する制度を設計することが難しいか思い知らされる。

西欧の政治制度。カトリック教会は、縁者での婚姻を禁止することにより、親族集団で財産が蓄積させず、寡婦や未婚女性から寄進を受けることで多くの財源を受けた。このカトリック教会の打算的な戦略により、親族集団が破滅的になり、女性の地位が向上した。さらに、親族集団が破滅したことにより、個人主義が発達した。

カトリック教会の信仰に基づいた政策ではなく、収入源を得るという営利的な政策が結果として西欧社会を先進的な地域にしたというのは偶然の実験で科学的成功をおさめることに似ていて面白い。

ローマ教皇が叙任権闘争により、皇帝と争った。その過程で、宗教的権威が組織化された。それにより、西欧では政治権力が大きく制限され、法の支配が確立するきっかけとなった。イスラム世界やインドでも、宗教は強かったが、カトリック教会のローマ教皇のような中心的存在や宗教が組織化されていなかったため、西欧ほど法の支配が強くならなかった。

法の支配の項で考えたのは、日本の政治文化は何だろうということだ。
日本の政治文化と言うと、天皇制だと思う。カトリック教会のように叙任権闘争をせずとも、日本では古代から権威と権力が分離していた。天皇は、権威として尊敬を集めてきた。鎌倉幕府も江戸幕府も支配者であっても、京の朝廷がいたため、法の支配があったと言える。幕府が独裁政権だったとは思えないのは、朝廷が存在したからだ。日本が近代化を成し遂げたのは、天皇と幕府との権威、権力が分離したことが最も大きな要因だと思う。これまでの仮説では、宗教的権威、天皇のような政治的権威が存在しなければ、法の支配は生まれない、と考えることが出来る。中南米、アフリカのような独裁国家で、憲法や議会のような形式的制度ではなく、法の支配を確立するためにはどうすれば良いか?

フランシス・フクヤマ 「政治の起源」 講談社.2013

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