日本再興戦略 [抜書き]
第1章。「欧米」という存在はなく欧州と米国が一緒だと思うことを止めること。まず、「欧米」という言葉を使うことを止めること。今の日本は、明治時代に近代化として摂取してきた平等、西欧的な個人、働き方、政治のあり方、教育等から「日本に向いているもの」、「日本に向いていないもの」を取捨選択する時期に来ている。近代化とともに捨て去った日本に向いているものを再評価することで意識を変えていく必要がある。それが真の自信につながる。
日本では公平という価値観は伝統であり、平等という考え方は馴染まない。平等とは、「対象があってその下で、権利が一様」ということを指す。公平とはフェアであることを指す。ズルや不正や優遇しないということ。公平と平等の違いは、例えば、センター試験でカンニングなどの不正が起きると起こるが、公教育に地域格差があったり、教育機会の差がある人が同じセンター試験を受けることに対しては無頓着。他には、江戸時代では、代官が片方に寄った裁きをしたらおかしいと思うし、公正な判断をして欲しいと思う。しかし、江戸時代の士農工商のような身分制度には違和感を持たなかったはず。つまり、ゲーム盤の上の不公正、不公平な裁きは気になるが、士農工商のような不平等問題にはあまり目を向けない。ただし、落合は、「僕は日本人の平等意識の低さを批判したいわけではなく、それは、ある程度そのままでいいと思っています」と書いている。
他の公平と平等を比較する例を考えると、日本人は生活保護を受けるほどの貧困世帯についての関心や同情は薄いものの、生活保護者がパチンコに行くなど娯楽に走れば猛烈に反発するとか。これは、公平と平等を正確に理解した例になっているか分からないが。
日本では「西欧的な個人」という考え方は向いておらず、歴史的には「コミュニティ」として寄り合って生きていた。日本人は「個人」を無理に目指してきたが、江戸時代には、長屋に住んで、依存的に生きていた。戦国時代以降、内戦状態により、「自然」に成り立った地方自治(藩)の境界線を保ちながら、その連合国家(幕府)でなんとかやってきた。本来、江戸の日本には、100、200、300と複数の職業があって、そのうち何個かの職業を一人が兼任して、皆で助け合いながら働いてきた。したがって、技術失業することもなかった。今は、「誰々の職業がAIに奪われる」という話題が多いが、本来であれば「我々はどのようにコミュニティを変えたら、次の産業革命を乗り越えられるか」ということだ。民主主義についても、個人の権利を最大化した結果、ポピュリズムの台頭を招いている。日本としては、「僕個人にとって誰に投票すればいいか」ではなく、「僕らにとって誰に投票すればいいんだろう」であり、転じて、「僕の学校にとって...」「僕の家族にとって...」と考えたら良い。
日本人は生活の中に労働を含む文化を持っているので、仕事とプライベートをオン、オフと切り替える必要はない。日本人は、古来、生活の一部として仕事をしていた。百姓は、農耕主体の社会で百の細かい別々の仕事をしており、東洋的にはずっと仕事の中にいながら生きている、それがストレスなく生活と一致しているというのが美しい。オン、オフを切り分けたら、負荷がかかっている状態を容認することになる。無理なくできることを組み合わせて生きていけるようにポートフォリオ設計する(職業の足し算)ことが大切。過労死するまで働く必要はもちろんないが、西洋的な二分法のワークライフバランスにとらわれる必要もない。
日本は非中央集権的な安定状態が長く、明治以来の西洋的な中央集権体制は向いていない。日本が地方分権で一番うまく回ったのは、平安時代以前と江戸時代。江戸時代は、武士という公務員の下、各藩はよく統治されていた。各藩の内部経済に中央政府が介入しなくても、各藩で再分配がうまく起きていた。明治以降、それまで日本という国民国家の概念がなかったのにも関わらず、「日本、日本」と言い出した。つまり、日本の良さはローカルにある。落合は、東京都という世界的都市が国と違う方針を出しても面白いのではないかと言っている。国という単位に、当事者意識を持てない。だが、道府県にも持つことができないという状況にある現在、せめて市や県に自分が属している意識を持って、自然と税金を払い、良い社会にしていきたいという公共精神を養うことが大切。
以上のように意識を変えるために、日本という国の成り立ちや、過去50年から100年での変化、そして日本の持っている良さをきちんと理解することが大事。
第2章。日本の古代を語る上でのポイントは、出雲政府と大和朝廷の勢力争い。この戦いには大和朝廷が勝って、大和が4世紀ごろに日本を統一。そこから日本は日本として成立。日本の前近代の始まり。その後、日本が近代的な国家を築くきっかけになったのは、中臣鎌足による大化の改新。ここから律令政治が始まる。大化の改新によって、日本の基本スタイルが生まれた。日本の中心に天皇制という概念を王制として持つが、天皇が政治する訳ではなく、その横にいる官僚、当時の中臣鎌足などが政治を行うというスタイル。権威と権力を分ける。この時代には現代の基盤となっている重要な制度が登場。743年に制定された墾田永年私財法。それまでは、三世一身の法の決まりで、自分で新しく切り開いた土地でも、3世代までしか所有できなかったが、墾田永年私財法により永遠に土地を自分のものにできるようになった。土地は国家が所有するものから、国民が所有できるものに変わった。中国は今でも土地の個人所有は認められていないし、同じアジアでも法制度は異なる。なぜ、中臣鎌足は権威と権力を分けたのか。落合は、天皇家も世代交代によって為政者としての才覚には差があるから、天皇に権力を集中させるではなく、天皇という統治者と官僚という執行者を分けた方が国はうまく治ると考えたのだと推測している。鎌足の子藤原不比等は、国民が天皇を信仰する様に、「日本書紀」や「古事記」を書き直した。イザナギやイザナミの話に加えて、天皇をその子孫とする神話を作った。神話を国策として編纂した。日本は、西暦700年代からこの統治構造で運営されて、その後の1300年に渡り、統治構造の大きな変化は起きていない。南北朝時代や江戸時代には、変化の兆しがあったが、結局変わっていない。他の国の歴史を見ると、「誰が王様になるか」という王座の争いを1400年代は1500年代まで繰り返してきたが、日本は他国に先んじて今の統治構造に到達した。
日本は宗教でも他国と異なる点がある。一般的に、宗教はイエスキリストやブッダのようなカリスマ性のある開祖が存在し、その後コミュニティを作る中で自発的に生まれるもの。それに対して、日本は統治者と国が国策として宗教組織を作った。さらに、国が神を設定したにもかかわらず、日本が天皇一神にならなかったこと。天皇の系譜は、八百万の神の中の、一つの存在として入っているだけで、統一権限はなかった。天皇は天照大神と近縁にも関わらず。日本は神様の世界も、民主的。神の連合会議を用いて、それ自体も信仰とする様な特徴は、現代の他の国ではありえず、イノベーティブなデザイン。
カーストというと悪いイメージがあるが、あるインド人にとっては「幸福の一つの形」。政治が不安定でも職業が安定していることで、心の平穏があるから。インドのカーストに当たるのは日本の士農工商だが、日本は本質的にカーストに向いている国。士農工商という並びはよく出来ている。士農工商の中で、「農」(自営業や作家、医者なども含む)と「工」の人は明らかにモノを生み出している。それに対して、「商」は基本的に生産に関わらないゼロサムゲームを行うので「商」ばかり増えると国が成り立たない。だから、士農工商の中で、「商」が一番序列が低いというのは正しい。職人の息子の方が、金融畑のトレーダーよりも優遇されるということ。AIが普及すると、「商」のホワイトカラーの効率化が進む。特に、専門性がなくて、オフィスでエクセル打っていた様な人たちは、機械に置き換わっていく。一方、何か具体的なモノを作り出せる人や、百姓(百の生業を持つ者)の様にいろんなことができる人は、食いっぱぐれない。
マスメディアによる洗脳として、大企業に入り、いい家庭を築き、家を買って、子供を塾に行かせて、私立の学校に行かせて、やがて病院で死ぬという模範的なストーリーが流布した。理想的な昭和人材の生成。次に、拝金主義。お金の話が多い。現代は年収が最重要な判断基準になってしまっていることが多いが、元々の日本人は例えば武士は経済力はなくとも名誉と権力はあり、商人は名誉がなくても経済力があるという様に、経済力が絶対的な価値ではなかった。それぞれが尊重する価値があった。今では皆、かつての商人の様に経済力に絶対的な価値を見出しているのではないか。大学生が好きでもないのに、メガバンクなどの金融機関に就職したがるのもお金が重要だと思っているから。しかし、お金からお金を生み出す職が、一番お金を稼げる(=価値がある)と考えること自体が間違っている。制度や発明など生産性のあることは何もしていないし、社会に富をもたらしてない。それなのに、金融機関に行きたがる若者が多いのは、マスメディアで洗脳されているから。
日本人は、本質的には文化価値や職人芸を認める伝統がある。日本は、技法のミーム(技能、習慣など)が根付いた国。日本では、技と美が一体化していて、技と美は一体に語られることが多い。芸術の世界と職人の世界が一体化している。日本画を例にとると、日本画は芸術であると同時に、素材作りから考えぬかないといけない。工芸的な側面と芸術的な側面を持つ。屏風も同じ。なんで屏風は折れて動くのか技術を理解していないといけない。西洋人は壁の様に動かないものに絵を描くのが普通だから、屏風に絵を描く日本人の発想を理解しにくいはず。掛け軸も、芸術であるとともに巻いて収納したり、運搬したりコミュニケーションとしての側面を持つ。マスメディアによる拝金主義を変えるためには、以上の様な文化や教育によってお金だけの軸で考えてはいけないと律する様なコンセンサスを作っていくしかない。
第3章。これから進化するテクノロジーは我々の生活をどう具体的に変えるのか。まずわかりやすいのが、自動翻訳による多言語コミュニケーション。将来、翻訳精度が上がっていくと、文化理解ではなく英語というツールの習得に命をかけてきた人は辛い。自動翻訳が普及した社会を想像するのに「攻殻機動隊」ハリウッド版が良い。映画の中で特徴的なのは、北野武が演じているシーン。周りの登場人物は皆英語で話すが、北野は、最初から最後まで日本語だけ。しかも、その言葉が劇中では字幕は何もついていないのに、周りの人間は理解できているというシチュエーションで進む。音声言語は統一されていないが、コミュニケーションが可能な多様さは未来的だという。近代国家を築くには言語を統一し、コミュニケーションが取れる様にして、国民意識を養った。インドには言語は400近くあるが、自動翻訳が発達すれば、従来の手法を使わず、国民同士のコミュニケーションが可能となる。
自動運転。もしタクシーが自動運転になったら、手紙がEメールになった時の様に、頻繁に自動運転タクシーを使う様になるはず。手紙をやりとりしていた回数よりはるかに頻繁に、Eメールでメッセージを送信する様になった。昔のカメラの撮影回数に比べて、デジタルカメラによってその頻度はずっと多くなった。これまではタクシーを使うのはコストがかかるので、全員が使うことはできなかったが、自動運転になるとコストが下がり、誰でも使える価格になる。その恩恵を最も受けるのは高齢者。自動運転が普及し、移動コストが安くなると、地方に住み、都会に出勤するというライフスタイルが広がる。
5Gのインパクト。5Gで重要なのは、遅延がほとんどなくなること。今までは遅延があると危険で不快に感じていた領域でも、テクノロジーを活用できる様になる。医療ロボットによる手術や自動運転、テレプレゼンスなど。5Gになれば、3次元的な空間そのものを共有することができる。今までは、画像をメールで送ったり、ツイッターに画像をあげたり、ユーチューブに動画をアップできるが、全て2次元のもの。
第4章。人口減少が日本にとってチャンスであると考える理由は、機械化しても人口減少社会では正義となること。世界中で人口減少が進む中で、ロボットを売りまくれること。人口減少社会では、子供が希少なので、教育投資が進むことの三点を挙げている。機械化という点では、人間は個人としても機械化されるし、集団としても機械化される。人と機械との親和性があらゆるレベルで高まっていく。老人になって体が動かなくなったら、体に車輪をつければ良い。言葉が話せなくなったらウェアラブルで解決すれば良い。腕が動かなくなったら、外骨格でロボットアームをつければ良い。そうしたパーソナライゼーションが当たり前の発想になる。僕たちが今やるべきことは、「身体ダイバーシティをどうやってロボットで解決し、身体および社会の問題を自動化する機械に置き換えていくか」ということ。
人口減少で重要な観点は、社会保障制度をどう維持するかという点だと思う。落合氏の言う人口減のメリットには賛成だが、社会保障を機械が担うことはできず、希少な子供が担うことになる。機械により自動化が進んだ社会で良い就業経験を積むことが難しくなることは予想できるし、そうした子供というより若者世代が年金や医療費などの社会保障を支えれるのか疑問だ。機械を所有する事業者に税金をかけ、その税金で社会保障を支えるくらいしないと社会のバランスは保てない。するとインセンティブが減り、イノベーションは多少減るかもしれないが、日本という国を持続させる方法として、今私が考えるベターな選択肢は機械税の導入だ。
ブロックチェーンとは、あらゆるデータの移動歴を信頼性のある形で保存し続けるためのテクノロジー。ブロックチェーンの本質は、非中央集権であり、コードによるガバナンス。元締めとなるプラットフォームがなくても、ユーザー同士で情報を管理したり、取引ができたりする仕組みが作れる。ビットコインが中央銀行を不要にしたように、シリコンバレーのプラットフォームを不要にする。日本発の日本で自己完結するプラットフォームを作れるようになる。 これまで信用創造していたのは銀行だったが、トークンエコノミーが発達すると、あらゆる人が信用創造できるようになる。中央集権的に評価を決めていた物事が、トークン発行とトークンの売買により民主的に評価され、健全なマーケットメカニズムが働く。
その他。蛸壺にならないようにするためのコツは、横に展開していけば良い。一つの専門性でトップレベルに登り詰めれば、他の分野のトップ人材にも会えるようになる。ただし、むやみに横展開すれば良いわけではない。横との交流は、トップ・オブ・トップに会えるようにならないとあまり意味がないから。まずは一個の専門性を掘り下げて名を上げた方が良い。トップ・オブ・トップの人たちに会うのは、とても刺激になること。
今は技術革新やインターネット上での最先端技術の創発速度が、人間の学習スピードより速い時代。だからこそ、今できることをやり続けないと、よっぽど勘のいい人じゃないと「将来的にこうなるから、こうだ」みたいな予測をすることは意味がない。コンピュータビジョンやディープラーニングに関するコミュニティは査読なしで高速な情報交換をしている。だからよっぽどじゃないと最先端には追いついていけない。逆にいうと、いつ始めてもビギナーで、そしてあるところまではちゃんと到達できる。つまり、デジタルヒューマンにとって必要なものは「今、即時的に必要なものをちゃんとリスクをとってやれるかどうか」。近代的な人間性は、「自分らしいものを考え混んで見つけて、それを軸に、自分らしくやって行こう」という考え方(まさに大学就活の自己分析)。要は、タイムスパンが違う。デジタルヒューマンは、やったことによって、自分らしさが逆に規定されていく。
昔「アメリカにはドラッカーが、アジアには大前研一がいる」という評を読んだことがあったが、今の私は「日本には落合陽一がいる」という安心感がある。これだけ頭の切れる人が日本を再興しようとして、全力で頑張っている。日本や世界を変えたいと日々小さな努力を続けているのが自分だけじゃないと分かる。まだこれからでしょと前向きになれる。その安心感を読んでいてずっと感じていた。
落合陽一 「日本再興戦略」 幻冬舎.2018
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