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人魚姫症候群

「あの子、人魚姫症候群なんだって。」


ひそひそと噂されているのは、その目から真珠を何粒も零している女子生徒だった。真珠は机の上に山を築き、それは今にも雪崩を起こしそうになっている。

「恋をするなんて馬鹿な子。」

「人を好きになるなんて下らない。」

嘲笑と侮蔑を一身に浴びる苦痛は想像に難くない。彼女は周りの声に耐えきれず教室から走り去っていった。積み上がった真珠がじゃらり、と音を立てて床に散らばる。生徒たちはまるでその一帯にヘドロが広がっているかのように彼女の席から距離を置いた。

人魚姫症候群が流行りだしたのは今から5年ほど前だ。思春期の子どもたちが声を出せなくなり、その涙が真珠に変わるという現象が相次いだ。その理由は定かではなかったが、どこからともなく「初恋をすること」が原因だと囁かれた。その根も葉もない噂はあっという間に世間を駆け巡り、いつの間にやら恋をすること自体が禁忌となったのである。

そんな風潮であったから、人魚姫症候群にかかったものは自身を恥じた。誰かを慕う自分は愚かなのだと。自罰的感情に苛まれ、自ら命を絶つものすらいた。人魚姫症候群は人々の心の一抹の差別感情に火を点けたのである。

***

淡島にしきは恋とは無縁である。

小学校の頃はやれ誰が好きだの、やれ誰に告白されただの周りがやいやい騒いでいた気もするが、人魚姫症候群が流行ってからというものそういった話はまるで聞かなくなった。

そんな彼女の日課は屋上でシャボン玉を吹かすことだ。今日も相変わらず人気のないそこで、何を思うでもなく石鹸水にストローを浸していると階段を駆け上がる音が耳に届く。おもむろに視線をやると、そこには大して言葉を交わしたことのないクラスメイト—海里みなが立っていた。その大きな瞳からは小指の爪ほどのサイズの真珠が溢れ、足元に転がり落ちている。

ああ、この子も人魚姫症候群になってしまったのか。にしきの胸に落胆と一片の憐憫の情が湧く。

にしきが知る限りにおいて、みなはクラスの人気者だった。小学校の頃、池から飛び出してしまって死にかけている鯉を、躊躇いもせず手で掬い上げて戻してやったくらいの正義感もある。それだけに、今の彼女の状況はとても哀れに思えたのだ。

みなはにしきを確認すると、頬を鬼灯のように染めて何やらぱくぱくと伝えようとしている。それを「鯉みたいだなあ」とどこか他人事のように思いながら、にしきはこっちに来るように手を招いた。

シャボン玉がふわりと宙を舞う。にしきがいくつかを空に送り出したとき、みなはスマホの画面を差し出した。

『淡島さんは、気味悪がらないんだね。』

その言葉ににしきの表情は苦笑を描く。彼女は恋と無縁ではあったが、今のような恋に対して批判的な世の中の論調に懐疑的でもあった。

『人魚姫症候群が初恋と関係してるって、淡島さんは信じる?』

にしきは迷いなく首を縦に振る。もし関係がなかったとしたら、もっと大々的にそのことが広まっていてもおかしくない。つまり「人魚姫症候群が初恋の病」という噂がここまで流布していることそれ自体が、二者が関係しているという証左でもあった。

『私もそう思う。実際に今日、私は初恋の人に告白しようとしてたの。』

みなの指がスマホの上を滑る。

『人魚姫症候群が初恋と関係してるなら、私もかかるのは時間の問題だって思ったから。かかる前に初恋が終わればいいんじゃないかって、短絡的な思考。』

自嘲気味に笑うみなに、そんなことないとにしきは口を開こうとする。しかしそれはみなの人差し指によって阻まれた。

『考えなしだよ、ほんと。恋が悪いことだって思われてるのに、私は気持ちを押し付けようとしてた。自分が人魚姫症候群になりたくないばっかりに。

そんなことしようとしてたから、バチが当たっちゃったんだろうね。』

みなは目元の真珠を拭う。小粒な乳白色の宝石が彼女の指を伝って地面に落ちる。

『決めたの。この気持ちは伝えないって。ずっと私だけの秘密にしておくの。そうしたら誰の迷惑にもならないまま、綺麗な思い出にできるでしょ?』

二人の間をそよ風が駆け抜ける。

『ねえ、淡島さん。よかったらそのシャボン玉、貸してくれない?

悲しい気持ちをシャボン玉に乗せて遠くに飛ばしたいんだ。』

にしきは快くシャボン玉液とストローを手渡す。程よい風がきっとみなの悲しみをどこかへ運んでくれるだろう。

みなが咥えたストローの先からガラス玉のような、けれどガラス玉よりずっと儚いものが旅立っていく。泡の一群を見送った後みなは息を吐く。その瞬間、彼女の目は大きく見開かれた。

「あ、れ……?声が、出る……!?」

最初にここに来たときのようにぱくぱくと口を開閉させ、逡巡ののちににしきを見遣る。にしきも驚いたように目をパチクリさせ、同じように口をぱくぱくさせていた。

「あ、のさ……海里さん。違ったら悪いんだけど、海里さんの好きな人ってもしかして、あたし……?」

みなの顔に再び紅が差す。にしきはしばし迷ったように視線を彷徨わせたあと、言葉を続けた。

「……人魚姫症候群の原因があたしだって言っても、それでも好きだって言える?」

「どういう、こと?」

にしきの赤い髪が揺れる。

「小学生の頃、海里さんが助けた鯉……覚えてる?」

「う、うん。けど淡島さん、なんでそのこと……」

「小学校のときいなかったのに、って?それはね……あれがね、あたしだから。」


——苦しい。水の中に帰りたい。

「どうしよう!鯉が池から出てる!」

「やだー!気持ち悪い!」

——人間の声……あたし、このまま死ぬのかな……

「大丈夫!?今戻してあげるからね!」

「みなちゃん!?」

「人間の体温は魚には高すぎるって何かで見た!手を水で冷やしてからなら大丈夫かな……」

——ひんやりした……手?抱えられてるのかな……

「……はい、もう陸に上がっちゃダメだよ。」


「あたしは助けてくれたあなたに会いたかった。けれど魚のままじゃどうあがいても会いに行くのは夢のまた夢……そんなときに魔法使いと名乗る人から声をかけられたんだ。」


《人の身になりたいかい?》

——あなたは誰……?いいや、誰でもいい。あたしはあの子に会いたい。

《君がそう望むなら僕が君に魔法をかけてあげよう。ただしタダとはいかない。》

——……何が望み?

《僕は魔法使いである日常に退屈してるんだ。面白いものを見せておくれよ。……そうだな、君に「声を出すことができず、涙が真珠になる」呪いをかける。そして世界中の叶わぬ初恋にも呪いをかけよう。君と同じ呪いを。》

——……そんな代償の大きい取引、応じるわけにはいかない。

《ふふ、もう遅いよ。僕は君に魔法をかけた。呪いを解除する方法はただ一つ。「想い人に君の恋心を受け入れてもらうこと」。精々僕を楽しませてくれよ。》


「あたしは海里さんの同級生として近づいた。けど、やっぱり声が出ないとコミュニケーションがあまり取れなくて、仲良くはなれなかった。それに呪いを広めてまで来てしまった負い目もあったし、あたしなんかが仲良くしていいのかっていう罪悪感も大きかった。

……このことを伝えたのは、あたしのただのわがまま。ごめんね。突然こんなこと言われても困るよね。」

「……ううん、淡島さんが嘘を言ってないのはわかるよ。原因だってその魔法使いの人で、淡島さんじゃない。それに両思いってことは、その呪いも解けるんでしょ?」

「……解けるよ。うん、解ける。」

言い聞かせるようににしきは呟き、何かを確かめるように左手を握った。

「……ねえ、海里さん。手、繋いでもいいかな。」

「?うん。」

にしきは手を繋ぐ前に一つだけシャボン玉を浮かべる。

「海里さん、このシャボン玉をずっと見てて。絶対に、目を離さないで。」

「いいけど……どうして?」

「おまじない。これからあたしたちがずっと一緒に居られるように。」

シャボン玉は風に揺られ、次第に二人から遠ざかっていく。やがて視界の端に消えようとしたとき、どこからか数え切れないほどのシャボン玉が飛来する。みなが驚いて隣のにしきに声をかけようとしたその瞬間、確かに繋いでいたはずの手の温もりが泡となり崩れ去る。


《呪いが解除されたら、呪いについての記憶を全ての人から消してほしい?》

——そう。きっと多くの人にとって辛い記憶になるだろうから。

《僕がそれをタダで引き受けるとでも?》

——もちろん思っていない。私の命と引き換えだ。恋が叶ったら、私のことを消してくれて構わない。

《世界と自分の命が等価とでも言うのかい?そりゃ傑作だ。僕に何のメリットが?》

——荒唐無稽な提案だという自覚はある。けれど、魔法使い。あんたにとってこれ以上ないくらい「面白い」提案だと思うけど?

《……ふむ。ふふっ、その意気やよしだ。確かに面白い。世界と自身の命を天秤にかけた鯉なんて君以外にいないだろうね。》

——それに世界と自分を天秤にかけた恋、なんてロマンチックじゃない?

《恋する鯉……使い古された表現だが悪くない。その望み、引き受けようじゃないか。》


淡島にしきは恋とは無縁であった。

けれど鯉から人になり、恋が叶ったのである。

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