「違い」
僕と道端の草はちがう
草はしゃべれない。歩けない。スマホを使ってnoteへ投稿もしない。
僕はしゃべれる。歩けるしスマホも使える。
こんな風に、自分にあって相手にないものを見つけるのは簡単。
逆もまた然り。
草は光合成ができて、葉っぱを千切られても生きてくことができるが、僕はできない。
僕と草の違いなんて、挙げればキリが無い。
じゃあ同じところはないのか?
いやある。
どっちも「生きてる」。
でも水や空気がないと生きていけないし、日光に当たらないと元気がなくなる。
そして、草は酸素を作ってくれる。
僕は草と違うから酸素を作れないけど、歩けるおかげで水を汲んできてあげることができる。
もし僕が歩けなかったら、枯れていく草を見ていることしかできないだろう。
人間は不可解な生き物だ。
草より違いが少ないのに、その些細な違いを許し、わかり合おうとしない。
自分と少しでも違うものは悪と決めつけて、違いが存在する理由を考えない。
「違い」があるから「助け合う」ことができるというのに。