自分らしさを、体感を通し経験し続けてゆくと “わたし” という表現者(=歴史)が出来上がって行く
本当に深めたいものを認識して自分の意識に取り込む
人と生きていると、どうも周りの意向とかに流されそうになる(誘われている)、と感じる場面に気付く。
自分が観ているものと他者が観ているもの、 同じ空間に居ながら そこに対する思い入れ 熱の入れように誤差を感じるのです。
時に 何かを見た時感じる温度差って 人と違ったりするのは当たり前だと思うのだけれど、「なんで喜ばないの?楽しまないの?楽しくないの?これって素晴らしいでしょ?」
そんな
みんなで一緒にそれを購入して…もしくはそこに参加して…楽しまなきゃ損だよ…的な言葉には 違和感を感じます。
そして
楽しければいい、 出来事の良いことしかみない、良いところだけでそこより深い所へは行く必要が無い、
まぁ そんな感覚をその人の周りに広げている場面を見ると、あ~それらの人達は 私が観ている部分と違う方向に目を向けているんだなぁ…と知らされる
…のです。
やたらと 楽しもう、 と 強要さえ覚える世界に…
「なんでもっと喜ばないのか?同じような波動(いわゆる良い波動と思われるもの)を感じてその恩恵を頂きなさい。」…そんな風に
何らかの奇跡的な事象を生じさせた誰かの発言に対して促す言葉を聞いた時、違和感を感じたことがあります。
まぁ ある意味で すごい現象を起こす人もいるものだなぁ~と、奇跡を起こす実際の人の話を目の前にするのだから、そうは感じても、促されるがままに、素晴らしい!! ブラボー!! と歓喜の感情に乗れるかといったら、私はそうではありませんでした。
たのしいにこしたことないのかもしれないけれど…
互いに観ている世界 向かおうとしている世界に 違いがある。
これはその人の経験から構築された世界に違いがあったり、共通の認識を持つ努力、や 環境にない、立場に違いがある、
…だからある意味仕方ない事なのだけれど、
本意ではないのに(ただ周りの気に流されているように見え、その人の本意なのか疑わしいと感じもするので)、
そこに流れているものに安易に想いを合わせるように見せ掛けてしまう事が、そこにあるものを複雑にさせてしまっている
様に見えます。
なんというか
言葉による はだかの王様的、集団催眠のような感じ。
他者の好みと 自分の好みには違いがあって当然
良いと思えて手にしたい、身に付けたい、と湧いてくる感覚は その人それぞれで良い。
自己の感覚を通った想いというものは否応なく些細な反応の現れとなって、その人の実像をそこに投射するものとなります。
“言葉” という表現が無くても 同じ空間に居れば その人の“言葉”にならない隠された真意も感じられもします。
文字だけの世界では感じ取る感覚が充分に機能されないから誤解やズレを生んでしまうのはある意味では仕方がありません。
けれど
それが 自分がほんとうに求めているものなのか?自分は 何を 求めるのか?どう生きたいのか?自分の時間を何をどう使って、生きたいのか?
…そんな風に
立ち止まって 自分が自分に向き合うことを勧めたい。
周りの気に流されないで、自分が求める、自分が生きたい 気の流れに乗る。
生きる時間経過の中で物事を自分の意識の変化と共に観ると、他者と生きる中で、自分として生きることの大切さや重要さを思い知らされる出来事が時に現象として現れてきます。
そしてそれらを同じ様に感じようとしている人もまた 同じ感覚を持っているかもしれません。
他者の望みに答えて生き続けるので無く、自分主体の感覚のまま求めるものをその都度選択してゆく。
自分は 何に囚われているのか?…という部分。なにか執着に囚われてはいないだろうか?…と 、何らかが歪んでいるように感じられたら、その選択は何らかのつまづきを生むものとなっています。
けれど
それに気づくことが出来たら自ら軌道修正出来る。…ということです。
自分を解放に向かわせるためのもの。自分らしい、自分が望む表現の方法。
自分の人生で何を感じながら人生の時を刻みたいのか?
ある程度 余裕を持つ必要もあります。焦って急ぐ必要があるのか?急ぎ行く必要はありません。
今というこの時、自分、という 自分だけの歴史を自分だけのやり方で刻んでゆきましょう。
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