「映画・さかなのこ」~〔作品副題〕愛したいものを愛し続けて何が悪いのだ?~発達障害って今や特別じゃない。特殊能力を活かせる道を見つけて胸を張って人生 生きていく
映画「さかなのこ」
~愛するものを愛し続けて何が悪いのだ~
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*以下 ネタバレを含む内容になっているので これからご覧になる方はスルーして下さい。
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さかなクンを描いている《映画》「さかなのこ」を 先日 U-NEXTで観ました。
最近では「発達障害」の子供たちを描写するテレビドラマ、また海外の映画作品でも実際活躍されている人物として描写されているものも見かけます。
映画「さかなのこ」は
さかなクンを描写した作品
《映画》「さかなのこ」では
「あまちゃん」で活躍した「のん」ちゃんが
さかなクンを演じています。
のんちゃんって 女性ではあるけれど、詰襟の学生服を着て 高校生時代を描いています。
……では
本編では
何を語ろうとしているのでしょう?
……私たちがこれまで刷り込まれてきた どんなもの、状態、が 正しく 間違いなのか…の、当然「普通」と「思わされ刷り込まれて来た世界」からは外れた視点に立つ必要があります。
「普通」であることが 優位に立てる時代ではなくなって来た
まさに 「普通」ってなによ……て話です。
いかに「普通といわれる」もっともらしい概念の世界から 抜け出してのびのび在ることが出来るか
人それぞれの特質である「違い」を、個性と捉え それを 抑圧するような、皆 同じように一様になされようとして来た世界から いかに「普通といわれる」もっともらしい概念の世界から 抜け出してのびのび在ることが出来るか……、という感じ。
(この映画では 自分に合った世界、自分が好きな事、愛したいものを愛し続けるため、そういうものに関わり続けて居られる場所を見つけようとする姿が描かれています)
言葉を創り出す「人の心」によって 創り替えられてしまえる表面上に現れる「もっともらしい 正しさ、とか 普通」……とされる「言葉」
言葉を創り出す「人の心」によって 創り替えられてしまえる表面上に現れる「もっともらしい 正しさ、とか 普通」……とされる「言葉」への問い掛け。そして それぞれの個性(違い)を受け入れ 認め合いながら 人生を生きるには 互いの違いをどうやったら活かすことが出来て 個性を自分の力とすることが出来るのか?
それぞれの人が活かされる道、何かを抑圧して 特定のものだけが優位に立つのでなく、それぞれが それぞれの違いを尊重し合い、みなが活き活きと生きるために
人によっては
この作品から 感じ方や受け取り方 そして どんなことが自分の現実に活かせるのか、……観て感じてゆく人が それぞれの人が活かされる道、何かを抑圧して 特定のものだけが優位に立つのでなく、それぞれが それぞれの違いを尊重し合い、みなが活き活きと生きるために、どんな世界にしてゆきたいのか?…など読み取ってゆくことが出来ます。
これまで「正しい」「普通」「正義」と表されていた表面上の世界から超越した場所から、目には見えない大切な なにかを 読み深め掴めるか
個人的に動画鑑賞好きで、「陳情令」や「山河令」等も 観て来ましたが
これらの描写の核心は 物事の本質は これまで「正しい」「普通」「正義」と表されていた表面上の世界からは超越した場所から、目には見えない大切な なにかを 読み深め掴めるか、などが 描写されているように感じて来ました。
「人の言葉」によって作り出される「表面上に発信され広がってゆく 真実」とは……
「人の言葉」によって作り出される 「表面上に表される 真実」とは、如何様にも「言葉」、言葉を創り出す「人の心」によって 創り替えられてしまえるもの……と 描かれている描写と これまでの人生を生きて来て私も同じように感じます。
「陳情令」や「山河令」などの動画作品では「言葉」によって人々が その「(正しいと感じさせる)言葉」に まるで呪術にでも掛かったかのように人々が働き 「正義、と思わされている信念」に 従って次々と出来事(トラブル)が生じる様子が伺えます。
「真実を装うフェイク」に 踊らされるように 人々の意識が 人々の感情は波立つ
……そして こういったことって 未だ現実の世界に「真実を装うフェイク」に 踊らされるように 人々の意識が 人々の感情が 波立つ様子が未だうかがえます。なにかに誘われるように 人々の意志とか 言葉や行動が 動かされているように見えてしまうのは私だけでしょうか?
「言葉」を使っても 理解を得るのは難しいことをよく分かっている人たちも居る だから白隠禅師のように「理解」を得ることを初めから選択しない人も居る
おそらく そういうものを観て 「言葉」を使っても そういったものには効かない、理解を得るのは難しいことをよく分かっている人たちも居るだろうと思います。
外側に見える「真実」…というものは 本当にそうなのか?
そしてそういった「真実らしいもの」を掲げて 人々は何がしたいのか?……というところ……です。分かる人には分かるかな?「何かを先導する言葉」を人が持った時、そこから何を人は得ようとしているのか?何を得たいのか?……そして そういった何かを得る必要が 本当にあるのか?……というところ。
「正しい」とか「普通」と言われるもの…って ほんとうに それらは その言葉通りなのか?
多くの人達が 現代を生きる上で刷り込まれて来た「正しい」とか「普通」と判断する基準としているものは ほんとうに その言葉通りなのでしょうか?
普通 とか 正しい とされてきたもの、人の言葉によって「真実」とされているものから外れたものを「間違い」「異質」と単に括ってしまって良いのか……?
そんな疑問をこれらの作品は
それらを観る人達に投げかけています。
《⚠️以下 映画のネタバレあり》
劇中 さかなくんの父親に さかなクンは
「普通じゃない」と言われます。
「普通って なんだか分からない……」と さかなクンは友人に言葉にする場面も 描かれています。
「普通」とは 何か?
みんな全てが同等に「普通」と言われ思わされている状態に在ることが 重要なのでしょうか?
日本では特に 出る釘は打たれる場合が多く、そして 自分の本意を隠して 周りの大きな意思の様なものに屈し そこに同調する流れが 特に強い国です。
「NOと言えない日本人」…て 過去流行っていた本の表題は 日本人の性質を表しています。 自分の本心の言葉を 秘めてしまう文化があったのだということも分かります。
今 現状を鑑みて感じるのは 思っていることを言葉にしない文化が 少しずつズレを生じさせていて明らかに 分かり合う 伝え合うことを積み重ねて来なかった個々が 個々のパワーとしては大きいものでも 集団となって纏まりを作ろうとする時 バラバラな状態を生んでいるようにも見えます。
でも……いや、そうじゃないだろう。
自分らしく、自分らしさを生きる……ということは どういうことなのでしょう…?
普通でいること? 正しくあること?
そもそも
「普通」…て何?
「正しい」って何?
と 投げかけている作品です。
全て みんなが同じように生きることが
重要であり大切なのでしょうか?
自分の真意は堂々と「言葉」で表現して良いし、例えばそれが 自分を含むまとまりの中で 「違うな?」と理解し 考え直す時は また 自分の言葉を修正し続けてゆけばいいだけの話です。
自分の言葉を表現したあとの外側の反応を観て 自分を恥じなくていい
私たちには発言の自由があります。ちょっと人と違ったことを言ったって その言葉そのものじゃなく その言葉に隠されている 物事の本質を読み解いてゆこうとすれば良い。
自分の真意の言葉を外側に表現することを 恐れる必要は無い。
私自身は 私の特質とする性質として 私自身が受け入れ、私が出来ることをするれば良い、と 割り切って 不得手な部分は私には苦手なのだと、自分が興味の向くこと、また 必然に必要でこなさなければならない分野は その中で私の性質が活かされるように自分自身で仕向けて来た人生でもあるように思います。
人によって 得意だったり上手く出来ることは違って当たり前だし それぞれ得意とするものに関わり続けてゆけば良い。
最近では巷で「発達障害」のWordを使う人達が多く出て来て、私と同じように 母親として 娘の苦しみを傍らで感じて苦しんで来た様子や 私自身の苦しみを 今に生きる人達が 今に生きる自分の苦しみとして感じていることが分かります。
時に孤独におかれても、ヘンテコな理論の巻き添えにならないためにも自らの心身を正常化してゆくためにも それが必要な場合がある
時に孤独におかれることがあっても
それが 必要で そこにおかれる必要があると特に感じるのは、私自身の経験からも 多くの人たちが なんだかヘンテコな理論を持っている場合、そこから離れ、孤独にあっても 自らの精神や魂を浄化し洗練させてゆくためにも 離れた方が良いと 経験上 認識しています。
「発達障害」とか なんらかの特殊能力があり、その能力が伸びるためには 周りの人(エネルギー)に邪魔されない空間や時間があり「適応障害」といわれる様な状態が必然に与えられたりするから 他者よりも長ける能力が伸びたり 備わるようなものなのだと物事を観てみる
多くの人たちは 物質世界で造り上げられてきた○○な状態が良い(例えばお金を設けるための仕組み)日本人は特にみなが同じであることを好み、そして「普通」とか「正しい」として来た状態から外れることを極端に嫌う様 仕組まれて来た社会構成の中で生きて来ました。逆にそんな状態を嫌ったり 「異常」だと決め付けてしまう妙な判断基準を作ってしまいガチで、そこからなかなか出られないような枠を作り上げてしまっているのは おおよそ この「発達障害」とか なんらかの特殊能力があり その能力が伸びるのは「適応障害」があったり、周りの人に邪魔されない空間や時間があるから 他者よりも長ける能力が備わるようなものなのだけれど、そういう仕組みを知らない場合、「正常な状態では無い」と括ってしまう傾向があります。
物質世界に生きると物質的なものを獲得するように人は生かされているので、故意に衰えさせられている能力がある(必然にその様な環境に多くの人はおかれている)
人間本来の直感とか チャネリングの技術は この物質世界に生きると 物質的なものを獲得するように人は生かされているので、衰えさせられている環境に人は居続けています。
個人的に感じるのは
健全なエネルギー交換の状態を多く観せる必要がある(特質を持ったことで 他者との違いが間違っていると思わされてしまう状態からは抜けるような、自己否定を植え付けさせられないような環境に居る必要がある)のと
そういう 自分の直感を受け取ったり活かせる環境やチャネリングや瞑想のように 静かに自己対話出来る静かな環境に そういう子供たちが護られる状態に定期的に置く必要があると私は感じています。
「孤独な状態におかれること」はもっとも彼らが心身共に浄化するため、また護られるためには必要な状態
……だから、「孤独な状態」に置かれることは
もっとも 彼らが心身ともに浄化するため、また 護られるためには必要な状態、と私は理解している。
私が声を大きくして言いたいのは……
自分が自分を攻撃する必要は無い。
…ということ。
さかなクンやメンタリストDaiGoくんのように
自由に自分の自分らしさを受け入れ 理解し、自分らしさを表現し 他者との違いを恥じること無く堂々と生きて欲しい……ということです。
経済成長を一生懸命に発展させようとして来た日本、必要で物質世界を発展させようとして来た、そしてそこから生まれた弊害もある
そして また、
私の人生 これまで 生きて来て思うのは
この人間社会は物質世界であり、特に戦後 経済成長の中 生きて来た日本は 物やお金、力というものを、多く得るようにと促された世界に生きて来ました。
多くは純粋さを この物質世界でそれらを得るようにと矯正されるように 「泥」の中に生きる必要がある世界に人々は生きて行かなければならない状態におかれる事が殆どだったように感じています。人が純粋に生きることは難しかった。
泥の中に咲く蓮の花……の様な存在とは
「泥」の様な状況や環境の中で
自分らしさを失わず 周りの状態に屈することなく自分を表現し続ける努力をしている人たちの事
強い権力 利益を得るため理不尽な状況に置かれたり知恵の無い 強い力に圧を受け「歪んだ力」「泥」のような状態に支配、侵襲され続けるような世界に人々は生きて来ました。
仏教でも言葉として表現される「泥の中に咲く蓮の花」の言葉を 若い頃はよく分からなかったけれど
ようやく これまで生きて来て、泥の中に咲く蓮の花……の様な存在は
例えば
さかなクンやメンタリストDaiGoくんだったり
そして
そういう「泥」の様な状況や環境の中で
自分らしさを失わず 周りの状態に屈することなく
自分を表現し続ける努力をしている人たちのことを私は「泥の中に咲く蓮の花」……だと感じるし観ています。
物事の奥深くに秘められている真理を自ら掴み取り自らの人生を心豊かなものにしていって欲しい
多くの人たちは
そういうものが分からず「まだ理解出来ていない状態」に在って
「泥」の状態が正常な状態で「そうならなければならないのか?」……と葛藤しながら 自分を傷付けながら生きています。
自分を傷付けて生きてはいけない。そういう場所からは早いうちに抜け出して欲しい。
……どうか そういう「発達障害」など 「障害」ってまた妙な名称を付けられていると思ってしまうのだけれど、このさかなクンのストーリーなどを観ても せっかく授かった能力を 潰すことなく みなが伸ばせるような社会になって欲しいと 切に願っています。
世の中で、特に日本で、「正しい」とか「普通」とか 「間違っている」とかいわれるものに対して
本当にそれらは そうなのか?
自分とか 人を 窮屈な世界とか枠に閉じ込めるような思想となっていないか?
……の疑問を 自己に問い掛け、物事の奥深くに秘められている真理を自ら掴み取り自らの人生を心豊かなものにしていって欲しいと願っています。
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