揺れ動く思考や感情から離れた視点を取り戻し、真の人生を取り戻す
偽りの自分が 知らず知らず形成され 人は たびたびその姿なき ”姿” に 翻弄される。そういうものに 左右されず自分を生きてゆけばいいのに...とも思うけれど、人とは 人と生きてゆく上で 関わる事をしなければならないから 厄介な事も生じるのだろう。ただ それは 単に厄介ということでもなく 問題が生じると それを解決に導く過程における ”快感” ”満足感” ”達成感” "危うさ" "儚さ"など 感じ得ているのかもしれない。
その中には何らかの学びがあり 知り得なかったものを知り得る、発見する、経験し、実感し、体感する 、それらの喜び(感覚)(学び) を得たいから 人は 問題が生じる道を わざわざ選択するのかもしれない。
ある本の中に 興味深い事が書かれていた。
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< 一部引用 要約 >
私達は 「いまここ」を 生きている。
「宇宙生命」が 人間として 体に宿り それぞれの生 ~思考や感情、体~ を生きている。
私達の内側には「体験の主体」が存在している。「体験の主体」が「ほんとうの自分」であり 私達の体を通し 世界を体験し それに対する ”反応” を生きている。( 反応とは 思考や感情 それを反映した様々な 行為 活動 )
人生を通し 私達は思考と同一化する習慣を身に付け 常に思考を体験している状態 にある。
このため
「体験の主体」の存在は思考の背後に隠れている。「体験の主体」が体験の内容に巻き込まれると私達の意識性は低くなる。(より無意識になる)そうすると「体験の主体」が 思考や感情、体と 同一化してしまう。これが 思考や感情 体 との同一化 の 起こり である。
こうして 私達は 自我 に 乗っ取られ 自我の思うままに操られる。” 自我 ” は 思考を通し 外側の世界 ~社会~ に対する 個人的な解釈 を行っている。この個人的な解釈 が 極端なものへ と 成長するとそれは 社会に対する 極端な行動 として現れる。
この反応が 自分自身に向けられると肉体的 精神的に傷つけ 時には “病” として私達は体験する。この反応が 外側の世界へと向けられると暴力や性犯罪 大小さまざまな“争い”として私達は体験する。
現代の私達の抱える社会問題は 全て私達が「本当の自分」を見失っている事から~「体験の主体」が 自我に乗っ取られている事から~起こっている。
思考や感情 体への同一化 が 起こっている時は~ 思考や感情 体=自分 ~ になっているのでそこにはそれらに気づく視点は消失している。それらに気づく事が出来る ”視点” こそが私達の内にある 「体験の主体」「体験の主体」が 思考や感情 体と同一化するとそれら ~すなわち自我~に 乗っ取られる。
思考や感情 体との同一化 が 起こっている最中には私達は体験の主体の視点を見失い思考や感情体と一緒になって活動している状態になる。 思考や感情は 常に揺れ動いている。「体験の主体」が 見失われると この揺れ動く思考や感情に 翻弄される事になる。そこには思考や感情 体しか存在していない。思考や感情 体 を ”自分” だ と感じている状態。
「体験の主体」は 思考の中へと埋没し 主体性を 消失する。=主体性= を消失すると 私達は無自覚のうちに 人生を思考や感情 体と同一化し 生きてゆく事になる。無自覚ゆえに 私達は 自分が ”無自覚” である事には 気付かない。
思考や感情の波、身体を体験しながら同時にまた それに気づいている意識状態が 存在する。それらの起こりに気付いている状態思考や感情 体の起こりを自覚している状態こそが「ほんとうの自分」の視点 「体験の主体」。
荒れた海で 救助を待つ人は 大きな波と共に揺れ 翻弄されて行く。
さとりによって 「体験の主体」が取り戻される事は ヘリコプターで レスキューされ ”波から離れた視点” を 取り戻す事。その視点から 荒れた海面を眺めて 初めて波に翻弄されない 視点の存在と その視点から得られる利点~真の人生~ を私達は知る事が出来る。
思考や感情の波は 悪いものではないので そのまま起こり続けてゆく。
さとりとは 揺れ動く思考や感情から離れた視点を取り戻す事、を言う。
≪~「いまここ」に さとり を選択する生きかた~より≫
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自分自身に(五感によって)取り込む 何かによって感情が波立ち 翻弄され 主体性をなくし操られるよう何かを体験するのだとすれば それらの行動や体験は感情に触れなければ 選択し得ない行動体験となる、ということになる。
上記引用に ”思考や感情の波は悪いものではない” とあるけれど、そういう体験の中で 無意識に翻弄され続けるより、意識的に目覚めた時 自分を生きる中で どんな行動体験の中に自分が居ても今 得られる喜びを体験体感しながら今を 感じていたいなぁ~・・・と思う。
さとりを 海での遭難の話に例え
=ヘリコプターで レスキューされ ”波から離れた視点” を 取り戻す事。その視点から 荒れた海面を眺めて 初めて波に翻弄されない 視点の存在と その視点から得られる利点 ~真の人生~ を私達は知る事が出来る。=
という内容は とても理解しやすい。
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過去 2013年に記事に挙げていたblog内容に少し手を加え再稿しています。
現在 コロナの件で色々と人々が翻弄されている様に見えるのは その原因である“新型コロナ”が 未知のもので対処したことがないからに尽きる。新しい経験には 新しい対処が必要だけれど、今までに起きたことがないことには盲目になならざるおえない。経験がない、というのは 先がどうなってゆくのか見えないのだから…。それがどういう経過を辿り、どういう力があって 人々の生命を脅かしているのか…というのは一定期間 その症状の変化や 軽快を辿る変化を観察し、その後に活かす必要がある。
ただ 人間は その、日々移り変わる 感染が広がっている事実に目を背けているだけでは 神さま(ここでいう神さま。とはまったく人々と離れた所に居るのではなく 人々の中にあって 人々が目の前に繰り広げられる出来事をどう観察しどう自分を物質体として意志を持ち発言を持って行動してゆくのか?に掛かっている。)はどうにも手を下すことが出来ない。放置していれば、なんの手立ても取ることも出来ず 死者が桁違いで現れる。という現象が起きる。
あれはどうか?これはどうか?と その先端に居る人達は それらに目を背けることをけしてすることをせず、その変化と共に対応を試みている。これは 翻弄されている。というのとは違いがある。
かくいう私も看護師として問診を取る際には、現状をよく知っている必要があり、どんな患者さんが来ても それに対応するだけの知識とか 行動力を備えていなければ それらに立ち向かうことは出来ない。
刻刻と変わっている状態に目や耳を塞ぐことは、実際携わる人間として 出来ない。
新型コロナの患者さんに限らず、様々な患者さんが来院される(うちでは入院施設もなく受け入れは行ってはいないが) けれど クラスターの様な状態を 無知な医療者として起こしてはならない。
なにか未知のことが起きた時、それらにただ翻弄され続けるのではなく、それらを正しく見極めるために 正しく観察する。
これは 他の多くの事象に対しても通じる
大切なことの一つだと 医療者の一人としても発言しておきたい。
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