非常事態の時こそ呼び起こされる 純粋な想いのやり取りの大切さ
志村けんさんが亡くなって 同世代の友人達と連絡を取っていた。相手から連絡してくれる娘も居るし、そしてその思いのやり取りは様々。
仲の良い家族関係の中で育った訳では無い私にブラウン管の向こう側から笑わせてくれる、おじいちゃんおばあちゃん大人から子供まで親しみやすい笑いを提供してくれていた彼の突然の死は 世の中の若い人たちへ この絶妙なタイミングで注意喚起を促すこともしてくれているようだ。国民の多くが親しみを感じていた彼、その彼の死は 最期の時でさえ 多くの人達に 個々の身近な存在として大切なことを語り 去りゆく事をする。
想定外の 思わぬことが起きると 人の命はいつまでもあるものじゃない 、そこに普通に在るものは 実は当然じゃないんだよ…ということを知らされる。
震災の時もそうだった。それまで そこに普通に在ったのに 無くなる。なんとも言えないどうしようもない寂しさ、というか 虚しさ…足掻きということでもない、なんらかの手立てをすれば 全て無かったことになるということでも無い。不安とか恐れというものでもなく、ただそれは在って 生じては消えてゆくもの。
同じ時がいつまでも続くことはないことを 誰しも心の中では分かっている。
ただそれは通り過ぎゆくもので その瞬間に 常に居続けるのだけれど その瞬間はまた一つ一つ過去のものとなってゆく。
今という時は その繰り返し。出来事は単なる事実の積み重なり。今この瞬間さえ離れ難いけれど どうしても過ぎ去ってしまうもの。
だからこそ
〝パン👏〟と何かしらを打って そして その人の〝響き🔔〟としての 何かがこちらに還って来るのを感じられる。
その人らしさというのが 感じられる。離れているのに心と心に温かい気の流れが生じる。そういうものを感じられる“今”がある。
傍に居る事だけが重要じゃなく、常に言葉を交わすことが重要ということでもなく、離れていても その想いの純粋さが気の流れとなって互いの心を行き来しながら 互いを柔らかいものが包んでゆく。
そういう何気ないカタコトの言葉、とか 些細な想いのやり取り、が なによりも愛おしく、一時の虚しさを優しく包み 何かをはぐくむことをする。
そういうものは大切だ。そしてこれからも少しずつ育んでゆこうとしよう。