年末、母の友人とランチを ~介護と癒し~
「電話には出られないことは分かっているんだけど、寂しくて、つい電話してしまって・・・」
以前「もうお電話していただいても、出れなくて・・」と、すでにお伝えはしていた母の大学時代のご友人。
母の携帯電話に、着信が数回あったので、私から折り返しお電話した際、こうおっしゃいました。
母には、その方に施設面会に来ていただくこと、何度か打診をしたのですが、いい返事はありませんでした。
何だか差し出がましい話ですが、「年末にランチでもどうですか?」とお誘いし、初めてお目にかかることになりました。
ウチはどちらかと言うと、核家族化しているので、家族ぐるみでお付き合いするのは親戚ぐらい。
私としても、私の知らない母の一面を知る方とお話をするのは、嬉しい気持ちでした。
予約したレストランを伝えると、「ここはお母さんと一緒に行ったことがあります」と言われたので、それも感慨深い感じがしました。
アルバム内のぱっつん少女
昨年、新幹線で、はるばる施設まで面会に来てくれた親戚のお嬢さんのAさん。
その後、Aさんのお祖母さんのアルバムから、「おば様(私の母)が生まれた直後の写真が見つかりました!」とLineで送ってくれました。
前髪ぱっつんの凛々しい女子(笑)
母にその写真を見せると、
私「誰かわかる?」
母「わたし⤴?」
私「そう!」
Aさんから、「祖母がおば様をを抱っこしている写真だけは、2枚ずつあるの」と教えていただき、「あ〜ほんとにかわいがってもらっていたんだなあ〜」と。
ほっこり愛を感じました。
エレガントな母の友人Sさん
待ちあわせ場所に到着すると、すでにいらっしゃっていて、約束の時間より、しっかり余裕をもって来て下さったことがよく伝わってきました。
「あ〜母にそっくり!」
母はいつも、待ちあわせ時間より早めに到着し、私のことを待っていてくれましたから。
Sさんは、母との思い出をたくさん話して下さいました。
母と一緒に歌舞伎を見に行ったり、バス旅行に出かけたこと。
家(私の実家)を建て直す時には、いろいろと母から相談があったこと。
元気なころ、太極拳やフラダンスを習っていたので、その話をしていたこと。
コロナ禍前は、毎月、私に会いに東京まで遊びに来てくれていたので、その時の話をしていたこと。
話を聞きながら「そう、そう」と、、これまでお会いしたことがないのに、私の人生の一部も、Sさんの内に存在することが不思議にも感じました。
そう、私の人生は、「母の人生の一部」でもあるのだ。
「あ〜母は人生を謳歌していたんだなあ」
素直にそう感じれました。
私はあなた。あなたは私。
昨年一年をかけて、母が会いたいかな〜と思う方々には、連絡をし、施設面会に来ていただきました。
意思疎通があってもなくとも、母であることには変わりがないけれど、コミュニケーションができる時のほうがいいように感じたからです。
そして、実際に会えなくとも、私を通して、お互いの話をすることができます。
現在の母の状況を鑑みると、早めにそうしてよかったと感じます。
カウンセリングの勉強をしていた時、「目の前のひとは、私である。私はあなたであり、あなたは私である。それは、まるで"うつし鏡"のよう」
この一節がとても印象深かったことを、ふと思い出しました。
「あなたは、別の姿をした”私”であり、私は、別の姿をした”あなた”である」
すべてはエネルギーだから、そうなのですが、こうやって誰もが、誰かの人生と重なりあい、誰かの内で「存在している」というのは、素敵なことだと感じます。
そして、その人の姿が、この世に存在していても、しなくなったとしても、それは同じなのかもしれません。