宇野弘蔵と批評
この記事の筆者である私に, 多大なる知的影響を与え続けている一人である宇野弘蔵という人物について, 私は以前に「宇野弘蔵入門」という記事で簡単に取り上げていた. この記事では, 宇野弘蔵が, 他者からの宇野の考え方に対する批評をどのように扱っていたのか, メモとして紹介することにしよう.
1 くだらない批評に興味はなし
宇野弘蔵といえば, マルクス主義経済学者をはじめとする多くの人から色々な批評を受けてきた人物である. その批評の中で, なんとも言えないようなつまらない批評, もっと言えば, 人格攻撃の言葉だけ激しく理論的に中身のない批評というものを宇野は受けてきていた. そんな宇野はこんなことを言っていた.
「ぼくは, ひとの理論に対し, 誤解乃至曲解をもって批評するような人の, 独特の理論には全然興味がない. それは決してぼくの理論を批評するからではない. 誤った理解をもってするからで, 正しい理解をもって批評されていれば, 勿論その人の独特の主張にも大いに関心をもつし, 大いに学びたい. ぼくの考えたことなどは, 誤っていれば改めるのに何ら躊躇することはないと思っている. といってもぼくもそう簡単に改めてばかりはいないし, またその必要を感じないのだから仕方がない. ぼくは, 新しい学説というものに, ただそれだけでは興味はない. 今までにもよく近代経済学をなぜ批判しないのか, といわれたが, そしていつもいうことだが, 近代経済学の諸君が, マルクスの, 例えば資本概念一つでも批判することができたなら, ぼくも近代経済学の勉強をしてみたい, と思っている. ただ新しい説だからというのでは問題にならない」(宇野弘蔵『宇野弘蔵著作集 第十巻』岩波書店, 235ページ)
この引用では大きく二つのことが述べられていよう. 第一に, 己の理論を開陳する人で, 他者の理論を誤解あるいは曲解して批評するような人の理論には, 宇野が全く興味を持っていないということである. 宇野の科学に対する厳密な態度を私はここに見ることができるのである. すべての言葉は, あるいは少なくとも学問的ないし科学的なすべての言葉は, 「巨人の肩の上に乗っている」ものである. つまり, 同時代を生きる人あるいは先人の中で, 現代に多大な影響を与えている人の影響下に, そのような言葉は置かれているということだ. 人の言葉を理解しようとしないで, あるいは批判(ここではカント的な批判から若干だけ意味を拡張して, 相手の内在的論理を読み取る行動, のことを批判と言っていると捉えてほしい)しようとしないで, 己が理論をただただ叫んでいるような人は, 学問の人ではないのである.
第二に, 宇野の近代経済学に対する態度についてである. これについては, 節を変えて, 詳しく述べることとする.
2 「近代経済学とマルクス経済学の調和」なるものの不毛さ
宇野は先の引用において, 近代経済学に対して「マルクス経済学に対する学問を実施せよ, そうすれば, 私も近代経済学を学びたいと思う」と言っているように私には思われる. マルクスの経済学は何よりも『資本論(Das Kapital)』(なお, Dasというドイツ語に「論」という意味は存在せず, Dasというドイツ語は, 冠詞として用いられるから, 『資本論』は『資本』と邦訳しておいた方が良い気がするのである. ただ, 『資本論』というもので日本では書物も発行されているし, あまりにも定着したものであるから, この記事ではこの風習に従っておくことにする. すなわちこの記事では, Das Kapital のことは『資本論』のことである, とするところである)に書かれていることに注意すれば, 宇野が近代経済学に対して「資本」概念一つだけでも批判してみなさいよ, と言っていることの妥当性は窺い知ることができるはずだ. このことに関連して, 宇野は次のような話をしていた. 長くなるが引用してみたい.
「岩波書店で『経済学小辞典』というのが出ている. これは大阪市立大学の経済研究所が編纂したもので, 私も編集委員に名前が出ているんですから, 責任があるわけですが, この辞書の「資本」という項目に二つの説明があるんです. 「資本(その一)」と「資本(その二)」というんです. 外国語の辞書ならば, 一つの外国語に幾つもの訳解があってよいわけですが, こういう科学の辞書に, 一つの言葉に二つの解説をつけなければならぬというのは何といってもおかしい. しかも(その一)の筆者は一橋大学教授の中山伊知郎君であって, (その二)の筆者が私なのです. 本ができてから私は直接に編集した人に聞いたんです, 「どうして僕の書いた資本が(その二)になるのか」と. もちろん私は(その二)の「資本」を書いたわけではない. その人は「そうですなあ」と頭をかいていた. 私は中山君の書いた(その一)を読んでみたが, 何をいおうとしているのかよくわからん. こういう曖昧な資本概念で資本主義の諸問題が, 常識的にはともかく, 科学的にどうして論ぜられるのか, 疑問とせざるをえない」(宇野弘蔵『社会科学としての経済学』ちくま学芸文庫, 51ページ)
何とも面白い話である. 日常的な会話あるいは科学的批判を通さない会話においては, 全く同じ用語が全く別の意味で用いられることもままある. 全く同じ用語であっても, 受け手と話し手の立場の違いやら教養の違いやらとで, 違った意味に理解されることもあるだろう. だが, 科学を行う場において, 全く同じ用語に対して, 異なった説明がなされるというのは奇妙である. 特に, 人間が生きている社会というものを扱う社会科学において(自然科学ではいうまでも名だろうが)扱う対象が一つであるのに, その扱いを実行する際の一つの言葉に対して複数の言葉があるというのは奇妙なのである. 誤った知見というものは科学的に訂正されなければならないわけで, 同じ用語が科学的に対等に存在していることは, 科学としては無茶なのである. もちろん全く同じ言葉が常に全く同じことを意味しているということを要求するのは, 日常会話においてはいうまでもなく, 科学の世界においても厳しいものである. だが, そのような事態になる場合には, その事態が発生した際に一言言葉を添えておくものなのである. 「今までは「〇〇」という言葉をこういうふうに用いてきたが, ここでは「〇〇」という言葉をああいうふうに用いている」などという断りが, 書かれておいてほしいということだ.
これに続いて宇野は次のようにも述べている.
「中山君は「資本」に関する従来の学説のようなものをいろいろとあげているが, 問題はこの資本という, 誰でもつかっているような言葉についても, マルクスによって初めて明確な規定が与えられているんで, これを否定するかどうかという点にある. これを根底からひっくり返すような新しい規定が出ていれば, もちろん, われわれもそれに従わなければならないのですが, マルクスの資本に関する規定を改定しなければならないような新しい規定が出ているわけではない. 前にやはり一橋大学の教授の杉本栄一君が近代経済学と, マルクス経済学とを調和させようとしていたので, 私はある座談会で「君方が調和を求める意図はいいとしても, 問題は, 近代経済学なるものがマルクス経済学を根本的に批判して新しい規定を与えてきたか, 否かにある. マルクスは従来の学説を徹底的に批判した上で, 自分の学説を出している」というようなことをいったことがある. 学問的にはそうだろうと思う」(同上, 52ページ)
先人の業績に対して無頓着であるばかりが, 言葉そのものに対しても無頓着な近代経済学に対する宇野の姿勢がこの引用から, 私にはよく伝わってくる. 要は近代経済学なるものは「巨人の肩の上に立って」いないのである, というふうに宇野は言っているように思われるし, これは私の意見そのものでもある.
3 なぜか一橋大学の教授が引き合いに出されているぞ★
宇野の今までの引用において, 批判的な文脈で出てきている人物, つまり中山伊知郎氏と杉本栄一氏はともに一橋大学で教えていたことのある人物なのであるが, これはどういうことを暗示しているのだろうか. あるいは暗示していないのだろうか...(この記事の筆者である私は, 一橋大学には学部時代からずっとお世話になりっぱなしなのであるが, なんだか心にちくちくと棘の刺さるような言葉を宇野から言われているような気がしてならないのである★)