青木志貴さんのLGBTQ配信を見て、自分に思うこと

青木さんはLGBTQに関して、ご自分の性自認を「自分という器を活かしたオシャレやメイクが好きな"男"(要約)」であるとお話ししていた。

なんとなくそうなんだろうなと思っていたので、それに関してはあまり驚かなかった。
私にとってはゲイやオネエやレズビアンが比較的身近な存在で、そういった人たちと共存してきた温度感が、うすらぼんやり「きっとそうなのだろう」「まあでも私の好き嫌いを揺るがすほどの問題じゃないや」と上手いこと思考処理してくれていた影響もあるとは思う。

それよりも、あの配信で私が「お?」と思ったのは、カミングアウトの解説のほうだった。
(もちろん青木さんに対してではなく、配信内容を見て自分に跳ね返ってきた感触のことです)

説明の中で青木さんは、「性の対象として"女"と見られるようになって、はじめて明確な嫌悪感を覚えた」とおっしゃっていた。

実はそれと同じようなことが私にもあって(と言っても今の段階では確実に性別が要因とも思いきれないのだけど)、たとえば、私は物心ついたときから自分の下の名前が反吐を吐くほど大嫌いなのだ。
その理由は「明らかに女性の名前だから」で、もっと簡単なニュアンスでいくと「女の子っぽすぎるから」とも言う。

ただ、それでも今まで「自分は女だ」と認識することに不都合がなかったのは、青木さんや他のトランスジェンダーの方たちと違って、自分の名前を書くときに比べたら性別欄の「女」にマルをつけることに抵抗がなかったり、よく引き合いに出される「幼少期に好きだった女児向け作品のお気に入りキャラクター」が女の子らしい女の子だったからだし、男性の立場に憧れることこそあっても、女性であることをなにがなんでも辞めようと思う瞬間が大してなかったからだ。自分が納得できるだけの辻褄が揃っていたんだろう。

でも不思議なもので、青木さんの配信を見ていた私は、他人事とは思えないただならなさを感じていた。

そこで唐突だけど、セーラームーンならはるかさんよりはみちるさん派で、おじゃ魔女だったら圧倒的におんぷちゃん推しだった自分の話を、少し掘り下げてみようと思う。

まず、最新の状況からさかのぼろう。
「クラスの男子たちがメロメロになっちゃう系の設定」を持つ高嶺の花やマドンナ的な存在のキャラクターが好きだった私は、20数年の時を経てどうなっているかというと、ぶっちゃけキャラクターの好みは正反対になっている。

おや、のっけからおかしいな?
幼少期の記憶では確かにふりふりのワンピースを着てニコニコして、なんだか品のいいお嬢さんに憧れていたはずなのに、なにがどうしたらこうも急カーブを切るのか。
今ではすっかり、ドラゴンタトゥーの女のリスベットとか、それこそセーラーウラヌスとか、あとライトなところでいうと月間少女野崎くんの鹿島くんみたいな、一言でまとめてしまえば「女で売らない激イケキャラ」に強く惹かれるようになっていて、その逆の「断然男だけど女性的な美しさを持ち合わせているキャラ」も相当推しがちな嗜好傾向だ。ONE PIECEのイゾウさんとか。

考えれば考えるほど突然の切り替わりすぎなので、もう少し自分の過去を振り返る。
すると、これかな?と思い当たる転機は高校2年生くらいの出来事にあった。

当時、ありがたいことに何度か他人とお付き合いする機会に恵まれて、私には彼氏というものがいた。
で、青木さんの言葉を拝借するなら"女性としての関係値を求められる立場"を経験したのだけど、あるとき途端に疲れて、きれいさっぱり辞めにしてしまったのだ。
私はそれを「自分が恋愛疲れしてしまったからなんだ」と思っていたのだけれど、青木さんの配信を見てから思い返すとそうでもない気がしてならない。

これはあくまで「たぶん」の域を出ない私自身の想像なのだけど。
私は徹頭徹尾、「性的な目で見られたくなかった」んじゃなかろうか?

高2の年齢から早10年。
暖かい家庭に憧れ、結婚生活や同棲生活をはじめていく知人各位にそれなりの羨ましさを感じて過ごしてきたけれど、答え合わせをするかのように、私は誰かの恋人というポジションにはまることなく10年間生きてきた。

これは念のためだけど「私は一人でも強い女だ」と誇示するために、この文章を書いているのではない。
どちらかというと、何年か前に「また恋がしたい」と思って他人からの好意に向き合った時期もあったくせに、恋愛音痴とか以前の問題で性を前提とする関係構築を受け入れられなさすぎてメンタルを壊したくらい、激ヨワい。

ここまでくると「あー、はいはい、なるほどね?完全に理解したワー」って気持ちで、私は私自身のことに察しがついているのだけど、それだと改めて書き記している意味があんまりなくなるので、自分のためにも明言しておく。
要因はおそらく、物心つきはじめた頃の私の家庭事情にある。

私は自分の家庭のことをスットコドッコイと表現することが多いのだけど、端的に言うと「"女"の"私"に権利がない」家庭だったのだ。
平成のご時世に男尊女卑を地で生きる父親と、はからずしてその横暴さを脚色して私へ吐露する母親と、なにかと性別を引き合いに立場を優遇されることの多かった双子の片割れ(兄)が近くにいて、自分が女であることを後悔しない日はほとんどなかった。(あまりの怒りで、独立してから今の今まで記憶から消去していた程度には胸糞悪かった)
あと、小学生時代の学童クラブが男子の巣窟だったというのも、ちょっとだけ。

具体的なエピソードを書き連ねると話がそれるので一旦置いておくけれど、とにかく「女であることで損をする環境」に育ってきた私は、「自分が女である認識は持ちつつも、女ではない自分になりたい気持ち」をいつでも強火でぐつぐつ煮えたぎらせていた。
それが、思春期の到来とともに女であることをいよいよ求められはじめ、許容できなくなった結果、飛んでしまったブレーカーを元に戻すように、あまり性別での線引きに価値を感じない思考回路になった、というわけだ。
で、冒頭の通り「おフェロ系女子」から「ジェンダーレス系のキャラクター」に好ましいアイコンが変わっていった。

私が青木さんの配信内容に対して感じた「ただならなさ」は、この答えに行き着く見えない導線が、今の私に響く温度感で言葉の端々にあったからだろう。

私は、心のうえで女であることに興味がなく、かといって身体のつくりのうえで男に成り代わることにも、それほどの興味がない。
女性の身体構造に生まれたことにのっぴきならない抵抗はないけども、女という性の色分けが自分の気持ちとして正しいか問われると疑問が残る状態で、今日という日を生きている。

青木さんの説明してくれていたところでいうと「クエスチョニング」という立場に近い存在なのかしら?とか思うけど、私には断定じゃなくても「たぶん」とかそんな程度のニュアンスで充分なのだ。
ここ何年も抱えていた世間に対する得体の知れない気まずさが面白いくらい払拭されたんだから、これは私にとって自分を理解する手がかりのひとつになったということで、間違いない。

だから青木さん、まじでありがとう。

環境による心の変化で選択的に「女であることを求められたくない」と感じるようになった私は、生まれたときから心と身体の食い違いを感じていた人たちとは正確には色々なことが違うと思うけど。
でも「そんなこともあるんだな」とナチュラルに自分のことを理解して受け止めるきっかけに出会えて、私は嬉しかった。

たとえるなら、はじめて整体にかかったときと同じみたいに、痛くて苦しくてどうにもならん気がしていたものが、魔法みたいにとれて視界が明るくなった気分と同じだ。

男とか女とか彼氏と彼女とか娘とか大人とか。
そういうのを抜きにして、何者でもないプレーンな存在でいたい自分を、私はようやく両手で抱き締めてあげられそうな気がする。

昔、自分のことを「オレ」って言ってたの、清々しかったし、またいつか気が向いたときにでも使おうかな。

※この記事は2020/3/10にEvernoteでまとめていたものです

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?