カレーの歌を聴け(村上春樹とカレーの学校) (37/40)
完璧なカレーなどといったものは存在しない。
完璧なおいしさが存在しないようにね。
僕がカレーの学校生徒だったころ偶然知り合ったある校長は僕に向かってそう言った。僕がそのほんとうの意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧なカレーなんて存在しない、と。
しかし、それでもカレーをつくるという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕につくることのできる領域はあまりにも限られたものだったからだ。例えばレシピ通りにカレーをつくれたとしても、カレープレイヤーになれないかもしれない。そういうことだ。
カレーの学校を卒業してから2年半、僕はそうしたジレンマを抱きつづけた。ーー2年半。長い歳月だ。
カレーをふるまい続けて家族が悲鳴をあげたとき、カレーはプレゼントなんだということに気づいた。(去年のアドベントカレンダーに書きました)
それから、カレーをつくる頻度はさがったものの、プレゼントのように相手に届けるカレーをつくることに努めてきた。娘の好きな料理がメインでカレーを副菜のような位置づけにしてみたり、カレーと名づけずカレー風のオカズをつくってみたり、炒め物にクミン風味をそこはかとなく加えてみたり、なるべく王道のバターチキンカレーをつくってみたりしてきた。よろこんでもらう前の、いやがられないことを心がけて。娘たちは口々に率直な感想を述べ、正直な態度で伝えてくれた。僕はその間じっと口を閉ざし、何も語らなかった。そんな風にして僕は30代最後の年を迎えた。(そして、40歳になりました)
今、僕は語ろうと思う。
もちろん問題は何ひとつ解決してはいないし、語り終えた時点でもあるいは事態は全く同じということになるかもしれない。結局のところ、カレーをつくることは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしかすぎないからだ。
しかし、正直に語ることはひどくむずかしい。僕が正直になろうとすればするほど、正確な言葉は闇の奥深くへと沈みこんでいく。弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。つけ加えること何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、カレーは家族に還り僕はよりうつくしい言葉で世界を語り始めるだろう。
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カレーの学校アドベントカレンダー
これは、カレーの学校アドベントカレンダー用の記事として、書いています。
カレーの学校関係者のみなさんも、そうではない方も、はじめましての方も、こんにちは。
カレーの学校4期卒業生の小西秀和ともうします。
ことしも、カレーの学校アドベントカレンダーに参加できて、うれしいです。のーどみたかひろさん、ありがとうございます。
さて、冒頭は、敬愛する村上春樹さんのオマージュとして、デビュー作「風の歌を聴け」を大胆に引用・改編させていただきました。
ほうとうの書き出しはこうです。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
「文章」を「カレー」に、「絶望」を「おいしさ」に変えてみると‥‥
「完璧なカレーなどといったものは存在しない。完璧なおいしさが存在しないようにね。」
何度も読み返してみると、まったく違和感なくカレーの学校で水野校長が言ってたように聴こえてきませんか? ビックリするほどに。そして、その後につづく小説の内容も。はじめのフレーズだけを拝借するつもりが、後の文章まで引用してしまいました。
文章とカレーって、絶望とおいしさって、なんだか近い存在のような気がしてくるのでした。
こどもスパイスカレーゼミは蜃気楼!?
わたしは「こどもスパイスカレーゼミ」でした。なのに、なぜか、ずっと、このゼミのことをつかみきれずにいました。
このゼミの目的は、こどもでもおいしく食べられるスパイスカレーをつくるというシンプルなものでした。
その目的を達成しようと、カレー事件を起こしてしまったこともありました。(詳細は、去年のアドベントカレンダーに書きました)
当時小学生だった長女は中学生になり、辛いのがまったくダメだったのに、すこし辛さにも興味がでてきたようです。「パパのカレーは本格的過ぎてまずい」と、ネタで言うようにもなりました。
次女は相変わらず「パパのカレーはイヤ」と言うけれど、本気で拒絶しなくなってきました。カレーの頻度が減ったことで、妻も納得してくれているようです。
年月の経過とともに、我が家のなかでのカレーの位置づけはゆるやかに変化しています。
その大きな要因のひとつは、子どもの成長です。もちろん、わたしのカレーに対する姿勢の変化はあるけれど、娘たちのめまぐるしい成長が、彼女たちのカレーという存在の認識が、どんどん変わっていることを感じます。
そうなんです。
こどもはずっとこどものままじゃない!!
あと数年もすれば娘ふたりは思春期や青年期まっただなかに入っていき、こどもとは呼べなくなってしまいます。もちろん、彼女たちの成長は何よりも変え難いよろこびであるけれど。
こどもでもおいしく食べられるスパイスカレーの完成には至らないし、娘たちはどんどん大人になっていくし‥‥「こどもでもおいしく食べられるスパイスカレー」というゴールは、進めども進めども蜃気楼のように目の前から消えていくのでした。
そう。「完璧なカレーなどといったものは存在しない」。
だけど。「完璧なおいしさが存在しない」というのが、わたしにとって「ある種の慰め」となっていることは確かなことでした。
また、カレーをつくることは、「自己療養へのささやかな試み」であることを、村上春樹はやさしく伝えてくれています。
完璧なこどもスパイスカレーは、蜃気楼のように実在しない。それがわかったときはショックでもあり、救いでもありました。
だから諦めるんじゃなくて、だからこそ、いましかつくれないカレーと、家族のコミュニケーションをつづけていこうと思う。
「何年か何十年か先に、救済された自分を発見できるかもしれない」と信じて。娘たちが大人になって、パパのカレーをどのように語るのかを待ちながら。
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エピローグ
「完璧なカレーなどといったものは存在しない。完璧なおいしさが存在しないようにね。」‥‥
ジャズと風俗で満たされた「リーダーズ・バー」で、偶然知り合ったあの校長は「カレーの歌を聴け」を読み終えたとこだった。ソファーに腰をおろすと、調教されたスパイスの薫りが漂ってくる。
村上春樹とカレーの学校ってか‥‥校長は「やれやれ」と、わざとらしく声にだして言った。(おしまい)
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