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記憶のゆくえ (12/40)

ポケットにこいしをつめこんで
いえにかえったことがある

あのとき
どんなことをおもっていたのか
おぼえていない

でも
きっと
たからものをひろっていたんだ

こんなところにも
あんなところにも
たからものがいっぱい

おかあさんは
びっくりしたふりして
わらっていた


どこにでもある宝物

子どもの頃のかすかな記憶が、大人になってよみがえってくることがある。
公園から家に帰ってしばらくしてから、娘のポケットから小石が出てくる場面にでくわしたことがあった。

小石だけじゃなくて、海辺では貝殻やシーグラス、秋にはどんぐりや落ち葉、道路脇に落ちているナットやBB弾まで、子どもはいろんなものを拾うのが大好きだ。
そしてひろうだけじゃなくて、時には口に入れたり、鼻のなかに入れてしまったり、ひみつのばしょに隠して忘れてしまったり、ひろった後のエピソードも数えきれない。

そんな、日常どこにでもあるものが宝物だった子どもの頃の記憶は、実は多くの人の共通体験なんだと思う。

なにも子どもの頃は、特別な世界のなかで生きていたというわけではない。
大人になった今も、今を生きる子どもたちと、おなじ世界でおなじ日常を生きているのだから。

れんしんばしら

ある日、約束の時間まで余裕があったので、知らない道を寄り道してみた。
そのときのことだった。
どこにでもある電柱に、なにやらうっすら文字が書かれていることに、気がついた。

ひらがなで「れ・ん・し・ん・・・」と書かれていた。
じっくり解読した結果、「れんしんばしら」と判明。
電柱に「れんしんばしら」?
電信柱(でんしんばしら)に「れんしんばしら」!

小学校一年生の男の子が、ある日の下校中、道ばたで釘を見つけた。
その釘はピカピカしていて、見つけた瞬間、彼はひろった。
その釘を太陽の光にあてたりしながら歩いていると、そこには電信柱が!
少し前にひらがなを習ったところで、男の子はひらがなを書けるじぶんが誇らしかった。
電信柱を見た時に、「れんしんばしら」とつぶやいた。
手には釘、鉛筆のように書いてみると、なんと書けるじゃないか!?

そんなことを妄想しているうちに、約束の時間になっていた。

まちの記憶

小学校一年生の男の子は、わたしの妄想に過ぎない。
だけど、わたしのなかでは、じぶんの子ども時代の記憶と、妄想の男の子がつながった瞬間があった。

妄想の男の子のなかでも、ひらがなを習って、鉛筆みたいにとがった釘が落ちていて、黒板のように書いてくれと言わんばかりの電信柱があったという記憶が、大人になっても残っているにちがいないと、さらに妄想してみる。

たまたま電信柱に「れんしんばしら」と書かれていたから発見することができたけど、考えてみれば、見わたすかぎりのものすべてに、だれかの、どこかの、いつかの記憶がやどっているということになりそうだ。

そんな記憶がつみかさなって、街には「まちの記憶」が保存されている。
そして、「まちの記憶」のなかで、わたし達はだれかの、どこかの、いつかの記憶を交差させながら暮らしている。

いつものあたらしい日常

大人になると、小石を見つけてポケットにつめこんでご機嫌になることは、なかなかない。

だけど、「れんしんばしら」を見つけたわたしは、鼻歌まじりでスキップしたいくらいご機嫌だった。

小石や電信柱だけじゃなく、壁の模様とか、軒下の置物とか、古びた看板とか、ピカピカのカーブミラーとか、色あせたマンホールとか、きれいな色した落ち葉とか、まぶしすぎる街灯とか‥‥「まちの記憶」にスポットライトをあてるたのしみをみつけたからだ。

そんな魔法のライトを手に入れると、いつもの景色がぜんぜんちがって見えてくる。
まるで、はじめて訪れる街を歩くようなきもちにもなってくる。
電信柱の「れんしんばしら」とおなじように、魔法のライトはただの小石を宝物にかえてしまう。

こっそり見えない小石をポケットにつめこんで、いつものあたらしい日常を暮らしていこうと思う。


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