桜の樹の下には、何も埋まっていない (11/40)
いまから約90年前に書かれた「桜の樹の下には」という短編小説がある。
桜の花の美しさの理由が、冒頭からハッキリ書かれている。
桜の樹の下には屍体が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。
「これは信じていいことだ」とハッキリ書かれているように、はじめて読んだ瞬間から、妙に納得してしまった。
そして、まいとし桜を見るたびに、その美しさとセットであのフレーズが頭によみがえってくるのだった。
そういえば、いまの会社に入ったときに、この小説を引用した自己紹介の原稿を書いた。
「じぶんという桜の樹の下には何が埋まっているのか、働きながら確かめてみたい」というような内容だったと思う。
ことしの桜を見たとき、あの自己紹介のことを十数年ぶりに思い出した。
「何が埋まっていたんだろうか?」と考えるまでもなく、「何も埋まっていない」という答えがすぐに浮かんできた。
自己紹介を書いたときは、仕事を通してじぶんのなかに埋まっている能力みたいなものが見えてくるんではないかと思っていたんだと思う。
そして、こんな能力が見つかったら、あんなことができるんじゃないか、みたいなことを漠然とイメージしていたように思う。
実際に、働くなかで見えてきたことはあったけど、取るに足りないことだった。
能力があるからすばらしい結果を残すわけではないし、能力があるからやるとか、能力がないからやらないとか、能力の有無や多寡が大切ではないことがわかってきたからだ。
いっそ、何も埋まっていない方が、何かにとらわれることなく、まっすぐにむきあえるような気がしてくる。
だから、桜の樹の下には、何も埋まってなくていい。
だけど、あんなにも美しい花を咲かせる理由がほしくなってしまうのが人間というものだ。
日当たりが良いとか悪いとか、土壌の栄養があるとかないとか、品種が良いとか悪いとか、そんなことに文句も言わず目もくれず、年輪を刻むことをやめないからこそ、花は咲く。
それが美しいと思うかどうかは、他人が決めること。
じぶんなりにじぶんの年輪を刻みつづけていくことが、すべての第一歩。
きょうから新年度がはじまる。
仕事をはじめたときの初々しさはないけれど、いつでもまっすぐむきあう気持ちで迎えたい。
そして一年後に桜を見たとき、さいしょに思い浮かぶことが何なのか、たのしみにしようと思う。