三度目の四十歳 〜 孔子は「四十にして惑わず」なんて言ってない 〜 (27/40)
ちゃんと数えると、3度目じゃなくて、4度目かもしれない。
とにかく、何度も四十歳を経験してきた。
四十歳になるのが、とてもこわかった。
うまく言葉にできないけれど、ハタチのときよりも、三十のときよりも、四十という区切りが、なんだか重大な出来事のように思っていた。
おもいかえせば、37歳になったとき。
もうれつに四十を意識しはじめたと思う。
このまま四十になってよいだろうか、いや、いけない。そんなふうにおもっても、なにもできないじぶんがいた。
だから、37歳のときから40歳のつもりで生きてみることにした。だけど、見えない枠のなかに、ずっととじこめられている感覚だった。
1度目の四十歳はは、「澱(よどむ)」という漢字がピッタリだった。
38歳になるときには、とにかく枠からはみでることを意識した。
このまま37歳の延長線のまま、四十になってよいのだろうか、いや、ダメだ。日常生活も仕事も、あたらしいことを学んだり、やってみたりした。
するかしないかではなくて、目の前の選択肢は「する」しかない40歳を生きてみた。ふりかえれば、無駄な動きがたくさんありすぎて、かなり疲れていたようにも思う。
2度目の四十歳は、「動(うごく)」という漢字があてはまった。
39歳になるときには、やみくもに動くだけではいけないと思った。
このまま38歳の延長線のまま、四十になってよいのだろうか、いや、ちがう。動く以外にどうしてたらよいのか、正直わからなかった。
そんなときに、いろんな再会がじぶんを導いてくれたように思う。
今も大変お世話になっている人はもちろんのこと、過去のじぶんとも再会をする40歳を生きた。じぶんでじぶんに蓋(ふた)をしていることに、気づくことができた。
3度目の四十歳は、「流(ながれる)」という漢字になるだろう。
そして、40歳をむかえるときには、澱んでいたものが動き出し、いい流れがうまれてきているような感覚があった。
このまま39歳の延長線のまま、四十になってよいのだろうか、たぶん、よし!
たんなるげん担ぎみたいなもんだけど、四十歳になることしに40本noteを書こうと決めて、なんとか続いている。(これが27回目、あと13回は年内に書けたら)
そしてついに、四度目の四十歳をついにむかえる日がきた。
ずっとずっとこわかった四十歳になったとき、じぶんはなにを思うのか気になっていた。
四十歳になりたてのいま、不思議なことに、とくになにも思わないし、感じない。
こわくもないし、きぶんがあがっているわけでもない。
迎えるべくしてフツーに迎えたというのが、正直な拍子ぬけするような感想になる。
『すごい論語』のなかに、『孔子は「四十にして惑わず」とは言わなかった』ということが書かれていた。衝撃だった。
そもそも、孔子が生きた時代には、「惑」という漢字は存在しなかったようだ。
のちの時代になって、「惑」があてはめられただけという。
孔子が生きた時代の漢字では、「或」だという。
現代では「或いは」という意味で使われている「或」ですが、この「或」に「土」をつけると、地域の「域」になります。また、「口」で囲むと「國(国)」になる。ともに「区切られた区域」を表します。 地域を表すのが左側の「口」、城郭で囲まれた土地です。右側の「戈」は棒に武器をつけた形で「ほこ」です。子どものころ地面に棒で線を引いて「ここからこっちは俺の陣地、入るな」とかやったでしょ。あのイメージです。棒の代わりに武器である戈を使っています。 すなわち「或」とは、境界線を引くことによって、ある場所を区切ることをいいます。分けること、限定することです。となると「不惑=不或」とは、「自分を限定してはいけない」という意味になります。(みんなのミシママガジン「特集すごい論語」より抜粋)
四十という区切りをつくっていたのも、じぶんだった。
その区切りを恐ろしいほど重大なものにしていたのも、じぶんだった。
じぶんはこんなもんだという蓋をしていたのも、じぶんだった。
一度目は澱み、二度目は動き、三度目は流れ、四度目はすこしだけ自由になれて、ようやく四十歳をむかえられた気がする。
三度目の正直より長かったけど、よかったよかった。
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