なにかを解釈すること。
「解釈」って、なんだろう?
というのを考えている。
たとえば、じぶん自身の目の前に
ことばがあったとして、
そのことばからなにかを解釈する。
そういうようなときにね、
人は、どのようにして、その
解釈をおこなっているんだろうか。
そこでまず大切なのは、
「読解」なのだと思う。
けれども、なかなか、この
読解ってゆうのもむつかしい。
ことばや文章をきちんと読むのも
むつかしいと思えるし、なおかつ、
ことばには、比喩、そのうちの暗喩、つまり
「メタファー」が含まれている場合があって。
メタファーとは、
「〜のような」のような語句が
使われない比喩のことだと存じますが、
その読んでいることばが、
メタファーなのか、それとも
比喩ではない直接的な言い方なのか、
という判断は、案外、容易じゃあない。
このときにね、あることばが
メタファーであると判断するには、
「推察」が必要だと思う。
推察、つまり、推理することって、いわゆる
「行間を読む」かのごとく、
直接的に、もしくは
具体的に記されていないことを
読み取る、という行為だから、
困難なのだとも思うし、また、ときには
推察を間違える場合もあるだろうし、かつ、
これはこうだからこうしてこうなる、的な
推論の筋道が通っていない状況もあるとも思う。
だからこそ、
ことばの解釈とは、
全く同じことばを読んでいたとしても、
人それぞれにあると思われる。
「邪推」ということばもあるけど、
そして、さらには
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」
ということわざもあるけれども。
ある人が言ったことばを、
邪推するかのごとく、もしくは
憎い人が言ったことばを、
憎しみのまま解釈することもある。
そのようなことはさ、いわば
ぼくだってもあると思うけれど。
逆を言えば、たとえば、
好きな人の言ったことばを、
その人が言ったことばなのだから、
すばらしい! って判断してしまうこともありうる。
それらのことがさ、
よいのか、わるいのか、
というのはここでは横に置いておいて、
人間は、そういうふうにして
ことばを解釈してゆくんだと思えるし、
そもそも、ことばには
そういう性質がある、というか。
そして、さらには、世界とは
そういうふうにして回っているんだとも思われる。
それは、つまり、
よくも、わるくも。。。
なのだとしても、ぼくは、これからも
解釈をしてゆくんだろうし、
その解釈とは、
仮説を立てるかのようにして、そして、
その仮説は仮説を超えなくとも、ぼくは
解釈することをあきらめたくない。
令和6年11月10日