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建国。

ほんじつは、建国記念の日〜。

そういえば、これまで、
さほど考えたこと無かったんだけれども、
日本の「建国」って、なんだろう?
ってゆうのをね、
今まで38年間とか生きてきて、
はじめて疑問に思ったんですが。

なので、ならば、
辞書で調べてみようと
「広辞苑(第七版)」を引くと、、

けんこく-きねん-の-ひ【建国記念の日】
国民の祝日の一つ。二月一一日。→紀元節。

‥‥とのことでして。

そのなかでね、矢印で
「紀元節」という語句が出ていたので。
そちらを引いてみると、

きげん-せつ【紀元節】
四大節の一つ。一八七二年(明治五)、神武天皇即位の日を設定して祝日としたもので、二月一一日。第二次大戦後廃止されたが、一九六六年、「建国記念の日」という名で復活し、翌年より実施。

「紀元節」とは、
四大節の一つ。。。。

なるほどぉ。

って申しあげますか、えーっと、
この「四大節」とはなんでしょうか?

し-だいせつ【四大節】
もと祝祭日とされた四方拝・紀元節・天長節・明治節の総称。→三大節

まずはさ、「四大節」がさ、
【よんだいせつ】と読むかと思って、
「よ」で引いてみても無くて、あせった。
もしかしたら【しだいせつ】かも?!
とも思いながら、あったからよかった。

この「紀元節」以外の
「四大節」は、、

し-ほう-はい【四方拝】
元日の朝に行われる宮中行事。天皇が寅の刻に、清涼殿の東庭(今は神嘉殿の南庭)で、属星(ぞくしょう)・天地四方・山稜を拝し、宝祚(ほうそ)の長久を祈る儀式。明治になって三大節の一つとする。
てん-ちょう-せつ【天長節】
四大節の一つ。天皇誕生の祝日。一八六八年(明治一)制定。第二次大戦後、天皇誕生日と改称。一葉、蓬生日記「三日、天長節なれば、例によりて餅少し斗(ばかり)つかす」→地久節
めいじ-せつ【明治節】
旧制の四大節の一つ。一一月三日。明治天皇の誕生日に当たり、一九二七年(昭和二)制定、四八年廃止。今、この日は国民の祝日の「文化の日」で意義を異にする。

あぁー、いろいろ、
語句が登場してきて、
調べるのが追いつかなくなってきた。
「四大節」の項目で矢印で記されていた
「三大節」とは、、、

さん-だいせつ【三大節】
旧制の三大祝日、すなわち四方拝・紀元節・天長節の総称。のちに明治節を加えて四大節といった。

「四方拝」「紀元節」「天長節」とのこと。
のちに「明治節」が加えられて、
「四大節」というようになった。

そして、
明治天皇の誕生日にあたる
「天長節」の項目で矢印で記されていた
「地久節」とは、、

ち-きゅう-せつ【地久節】
[老子第七章「天長地久」]皇后の誕生日の旧称。一八七四年(明治七)制定。一葉、みづの上日記「安井木村の両君は地久節の会ありて徳も参られず」

皇后の誕生日、とのことで。
「天長節」と「地久節」、どちらにも、
樋口一葉の引用が掲載されているねぇ。

そして、えーっと、
なんだっけ。。。

ほんじつは、「建国記念の日」で、
「建国記念の日」とは
「紀元節」で。
「紀元節」とは、明治5年、
神武天皇即位の日として設定された。
とのことなのだとすれば、
「神武天皇」とは、大昔における天皇、
というのは聞いたことあるのですが。
ぼくはあんまりよくわかっていないので、
「神武天皇」も、引きましょう〜。

じんむ-てんのう【神武天皇】
記紀伝承上の天皇。名は神日本磐余彦(かんやまといわれびこ)。伝承では、高天原(たかまのはら)から降臨した瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曽孫。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四子で、母は玉依姫。日向国の高千穂宮を出、瀬戸内海を経て、紀伊国に上陸、長髄彦(ながすねびこ)らを平定して、辛酉の年(前六六○年)に大和国畝傍の橿原宮(かしはらのみや)で即位したという。日本書紀の紀年に従って、明治以降この年を紀元元年とした。畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)はその陵墓とする。→始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)・天皇(表)。

この最後で記されている
「天皇(表)」というのは、広辞苑の
「天皇」の項目で表になっておりました。

なんだか、伝承のこと、
語句もふくめてかなりむつかしい。

伝承上では、
西暦前660年、神武天皇が即位して、
その年を日本書紀の紀年に従い、
明治5年、「紀元元年」とした。

西暦とはまたべつに
「皇紀」という年の数え方も聞いたことあるけど。
それはこの「前660年」のときから数えた
年だったのね。ちなみに、
2021年は、皇紀2681年なのだそう。

なんだか、
くわしくはぞんじないんですが。
江戸時代には、これまで
国が「藩」でわかれていたのを、
明治になったとき、
それらをひとつにまとめようとして
「日本」という国にした。
そのときの根拠を、「日本書紀」に従った。
ということなのでしょうか。

それが、現在での
「建国記念の日」という祝日になっている。
ということでしょうか。

そうなのだとすれば、えーと、
なるほどぉー。。。

令和3年2月11日