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まちがいにならないようにと思えば思うほど。

前回noteでは、山崎エマ監督の映画作品
『小学校 〜それは小さな社会〜』を、
映画館で観ながら、及び、観終わってから
考えていたことを申しあげました。
それは、つまり、
「教育」とは何だろう?!
ということなのですが。
前回からの続き的に申しますと、ぼくが思うのは、
完璧な教育なんて無い。
言い替えれば、この教育を行えば
すべての人が完璧に成長される、
という方法みたいなのはあり得ない。
だからこそ、すでにあるものを駆使しながら、
試行錯誤しながら、及び、葛藤しながら、
なんとかやってゆくほかない。

映画によれば、日本の小学校の特色として
クラスの係や日直、給食当番、委員会が挙げられるそうですが。
委員会のことで言うとすれば、
映画のシーンの中で、小学六年生のある児童さんが
「放送委員」をやっておられて、ぼくも
小六から中学三年まで放送委員をやっていたので、
小学校及び中学校の放送室の光景を思い浮かべていた。
ぼく自身においても、そのときの経験って
先生から怒られたような出来事もふくめて、
特異なものだったのかもしれないなあ。

学校とは、基本的には
「勉強」を学ぶ場所であり、そして、勉強には
「正解」と「不正解」が存在する。
すべてがそうとは言い切れないと思うけれども、
テストを行い、かつ、成績をつける際には
正解が多い人ほど、よい、となるのだろう。
逆に、不正解が多い、つまり、
まちがいの多い人ほど、だめ、となる。

このごろのぼくのブログではね、
「音楽」について考えることを記していたので、
映画『小学校』の中で、小学一年生が
次の一年生を迎えるために演奏の練習をするシーンは、
とくに興味ぶかく観ておりました。

小学一年生のある児童さんは、
みんなで演奏する曲の中でも、
じぶんひとりだけが演奏をする楽器に志願して、
学年のオーディションを受けられた。
そして、この児童さんは
「シンバル」を担当することになった。
しかし、みんなと合わせる練習の最中では、
これまでの練習が疎かだったのか、それとも
緊張してしまったのかうまくできなくって、
先生に注意されてしまった。
という場面を観ながらぼくが思ったのは、
ぼく自身、学校の音楽の授業って、けっこう
「恐怖」を感じていて、それは、もしかしたら
こういうことだったやもしれない、とも感じたんだった。

音楽にも、学校の勉強と同じく
「正解・不正解」があるのだと思う。
つまり、楽譜の譜面どおりに
演奏できていなければ、その人の演奏は
まちがいとなる。そして、
まちがいにならないように、と思えば思うほど
こわくなってきてしまって、
ともすれば、音楽も、
楽しくないようにも感じられてしまう。
みんなで演奏するならばなおのこと、
じぶんがまちがえてしまえば、
みんなに対しても迷惑になるから、
より恐怖を感じることもあるやもしらない。

そのようなときにね、
音楽の素人であるぼくの思うには、先生が、
どうして楽譜どおりにできないの?
練習してきてないの?
というふうに怒ってしまうのは、
よくないのではないのかなあ、と感じられて。
たとえば、とくに、この児童さんの担当された
「シンバル」は音の大きな楽器だからこそ、
大変なパートなのやもしれないですが。
でも、たとえば、
ある小節のこのときに、シンバルが
ぱしーん! と鳴らされるのは
こういう理由があって、そして、
ここで鳴らされないのは
こういう理由があって、そのように演奏すると
曲がとても素敵になる、と説明する、
みたいな。そうすれば、
正解か、不正解か、に恐怖するよりかは、
ぼくとしては楽しそうにも思えるのですが。
素人の意見で、すみません。。。

でも、この児童さんはその後、
先生からの注意もしっかり受けて、
とっても練習されて、本番も立派に演奏されていて、
かっこよかったなあ〜!

あらゆる経験が成長の糧になるし、
失敗も、そして、怒られることも、
大切なことなのでしょう。
それでも、たとえば、
まちがいがだめだという教育が行き過ぎれば、
ある子供のその後の人生に強く及ぼすような、
トラウマのようなものにもなりかねない。

なんだか、映画の内容とは
すこし離れてしまったとも思うのですが、
そんなことを考えたりしていたんだった。

ただしいか、まちがいか、というのは
だれがどのようにして決めるんだろう?
人によっても、及び、時代によっても、
変わってくるものごともあるだろうに。

令和6年12月22日