
「現実の死」と「フィクションの死」と。
ぼくは村上春樹さんの小説作品が好きなのですが、
あるころ、村上さんの小説では、
メタファー(隠喩)を考えながら読む、
ってゆうようなことを知ってからは、たとえば、
このことばや文章及び内容とは、
どんなメタファーなんだろう?
って思うようにもなったのですが。
ともすれば、いわば、
その中で描かれている「死」というものもすべて
何かのメタファーなのやもしらない、
とも思ってみたんだった。
つまり、現実の「死」と
フィクションの「死」は、
異なるものである。
というふうにも考えられると思ったんだけどね。
それがさ、でも、
どういうふうに異なるか? というのは、
ぼくはまだよくわかっていない。
たとえば、このごろのブログでしるしております
『ブラッシュアップライフ』でも、また、
先日映画館での上映が終了いたしました
『THE FIRST SLAM DUNK』でも、はたまた、
このごろ熱心に観ておりますドラマ
『最高の教師 1年後、私は生徒に□された』でも、
さらには、昨日のブログの中で申しました
ゲーム『MOTHER3』及び、
映画『君たちはどう生きるか』でも、ひいては、
あらゆるフィクションの作品の中では
あらゆる「死」が登場する。
「死」を考えることにおいては、
「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」
に分けて考えることができる、
というのも聞いたことがあるけれども。
かたや、フィクションの作品で登場する「死」とは
そのうちのどの「死」とも異なる、つまり
「フィクションの死」と呼べるのかもしれない。
そのような「死」から、ぼくらは
何を考えることができるのか????
Mr.Childrenの『HERO』という曲では、、
駄目な映画を盛り上げるために
簡単に命が捨てられていく
違う 僕らが見ていたいのは
希望に満ちた光だ
【HERO/Mr.Children】
という歌詞で歌われるけれど、
この歌詞とは、たしか、桜井和寿さんが
映画『オーシャンズ11』を観たときに、
「誰も死なないことがよかった。」
とのようなことを想われた、というエピソードを
当時のインタビューで読んだ記憶があるんですが。
ぼくも『オーシャンズ11』が大好きで、
桜井さん仰るこのことはとてもわかる気がするし、
そして、この曲を聴いたり歌うときには
【違う】のところでぼくも力が入る。
あらゆるフィクションの「死」というものが、
Mr.Childrenの『HERO』で歌われる
【簡単に命が捨てられていく】
のような「死」ではなかったともしても、それでも
フィクションで「死」を扱うことは、
「駄目な『作品』を盛り上げるために」
という面を孕んでいる可能性もあるやもしらないし、
でも、そしてまた同時に、
そのようなフィクションの「死」から、
何かを考えようとすることもできるんだろう。
今から22年前、「9.11」のニュースを見たときには
(まるで、映画みたいだ!)と口走ってしまったこと、
今さらながら反省をする。
あの出来事とは、映画でも、且つ、
漫画でも小説でもフィクションでもなく、
現実のことだった。
残酷に過ぎる時間の中で、
ぼくは果たして、十分に
大人になったと言えるんだろうか?
令和5年9月11日