価値の無いことばは無意味なのか?
ことばって、なんだろう?!
というのはさ、こうして、日々、
ブログを書きながら考えたりするし、
誰かと会話をしてから、その会話を
振り返りながら考えたりもするけれども。
ぼくは、いまだ、ことばとは
どういうものかよくわかってない。
ことばとは、
他人に何かを伝える、つまり、他人との
コミュニケーションのために使われる、
もしくは、じぶん自身の中で
何かを考えるために使われるものである、
とのように言われているとぞんじます。
このことを知り、ぼくは、
なるほどぉー! と思って。
つまり、ことばには、
他人とのコミュニケーションだけでなくって、
じぶん自身とのコミュニケーションとしても用いられる。
って考えようとするときにね、
でも、ここで、ひとつ、
懸念が考えられるとも思われる。
他人に伝えること、及び、
じぶん自身の中で考えること、
ってゆうのはさ、このときに
「価値」が求められる、というか。
たとえば、他人へと伝える場合には
伝えるための「精度」が重要だし、
じぶん自身の中で考える場合には
考えることの「意味」が重要だと思う。
このときにね、その
精度や意味が高ければ、ことばに
「価値」があるとされると思う。
逆を言えば、
伝えるための精度が低い、もしくは
考えることの意味が低ければ、そのことばには
「価値」は無いとみなされる、
というふうになってしまうようにも感じるの。
つまりはさ、ことばに対する
それらの度合いを、どんどん
上げてゆくことが必須になってくる。
あげくには、そういうような、ことばの
価値を高めるための競争が繰り広がりながら、
ことばは先鋭化してゆく。
でも、はたして、ほんとうに
価値の無いことばは無意味なのか?
って言うよりかは、
無意味のことばは無価値なのか? なおかつ、
滞るコミュニケーションは無価値なのか?
ぼくが思うには、そもそも、
意味が無くたって声に出すだけでも
心地よいことばもあるし、また、他人との
コミュニケーションは滞るのが前提だし、
じぶん自身の気持ちだっても、
ことばにするのも容易じゃあない。
そんなとき、
ことばを学べば、つまり
ことばの価値を高めれば、
あらゆる問題が解決する、
というふうにはぼくは思えないな。
だからと言って、
なにもしなければよいか?
とも思えないけど、かつ、そんなとき
どうしたらよいかもよくわからないけれども。
そういうことはよくわからないながら、
ぼくは、でも、なんだか
よくわからないことばを、
ふがふが、もごもご、けらけら、つらつら、あたふた、
鼻歌のように言ってたいぜ!
令和6年11月21日