見出し画像

折り合いをつけようとすること。

昨日のブログでもしるしたけれども、
「考える」とはどういうことか?
を考えるとするならば、昨日のブログのこと以外でも
思っていることがあって、それは、たとえば
「折り合いをつける」みたいなことなのですが。
つまり、じぶん自身と目の前にある世界との
折り合いをつけようとすることが、
「考える」である、ってゆうのをね、
このごろでは考えているの。

この目の前には、
世界が広がっているけれど、その世界を
ぼくはどのようにして認識しているのか、
と言えば、じぶん自身の
目や耳や鼻や手や足や肌などなどの感覚を通じて、
脳が把握している、と言えるんだろう。

以前、薬学者・池谷裕二さんが、
脳は頭蓋骨の中で幽閉されていて、
そこは真っ暗闇の世界で、下界から
完全に遊離された孤立した存在である、
というふうにお話しされていて。
(ほぼ日刊イトイ新聞、池谷裕二さん×糸井重里さん対談
『脳の気持ちになって考えてみてください。』第8回より。)
その感じのことをね、このごろまた
あらためてイメージしていて。
つまり、脳とは、
目や耳や鼻や手や足や肌などなどの感覚が無ければ、
なにも認識できないし、なおかつ
なにも考えることもできない。

これらの感覚が、人間の
「センサー」となっていて、その
センサーによって世界を認識している。

センスがよい・わるい、
ということばもあるけれども。
「センスがよい」とは、一般的には、
おしゃれとか、感性がゆたかとか、
ことばの選び方が素晴らしいとか、
そういうような人のことを言うと思うけれど。
センスとは、つまり、感覚であって、
感覚の度合いが高い、という状態が
「センスがよい」だとぼくは思っている。

目の前の世界では絶えず
あらゆる出来事が起きていて、
その出来事を、人は、じぶん自身の
「センス」によって認識している。
とは言えども、そのような出来事は
簡単には認識できないこともあって、
そういうときにおいて、頭の中の
「脳」によって考えようとする。
このことを、ぼくは、上で申しあげました
「じぶん自身と目の前にある世界との
折り合いをつけようとすること」
なのだと思っているの。

ここでね、ぼくが
「折り合いをつけようとする」
と申したのは、たとえば、それを
「理解する」とか、
「把握する」とか、
「解決する」とか、
ということばにしてしまうと、
そこがゴールとなって、でも、それは
簡単にはできえない状況もある。
そんなときにね、そういうような
「折り合いをつけようとする」とするならば、それを
理解できなくとも、
把握できなくとも、
解決できなくとも、
それでもなんとかしようと試みる、
という意味合いになるんだから。

つまりはさ、言い替えるならば
「目の前のことをなんとかしようとする」
ということが、いわゆる
「考える」なのだとぼくは思うの。

そのために、脳は、悩むだろう〜。

令和6年9月21日


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?