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空に見える雲のように。

たしか2008年のときだったと思うから、
もう15年が経つんだけれども、この年、
母の姉、つまり、ぼくのおばが亡くなった。

母は6人兄弟の末っ子で、
おばは兄弟の一番上の長女、そして
兄弟の真ん中は男性ばかりなので、
女性の兄弟は母とおばの二人だけでね。
母とおばは年齢は一回りちがうので、
母が子供だったころには、
母は子供、おばは大人、というような関係性で
いわゆる仲がよいというふうではなかったらしいけど、
母が大人の年齢になってからは、
なんでも話せるような姉妹だった、
と、息子のぼくから見ても感じていた。
なので、このとき
姉を亡くした母の哀しみは、
ぼくには量り知ることができない。

ぼくが子供のころには、
おばから母へと家に電話がかかってきて、
その電話にぼくが出たときには、毎回
「ひでかね?」って、ぼくの名前を呼んでくれた
おばの声を思い出すなあ〜。

母が幼かったころ、お姉さんから
いろいろなお話しをしてもらったらしくって。
それは、たとえば、
戦争のときの話しもあれば、また、
怪談みたいな怖い話、それも、その場で
即興で作ったようなフィクションのお話しも、
よくしてもらっていたらしい。
母曰く、おばはお話しがとても上手くて、
いつもおもしろかった、と。

そんなおばのことを、今でも
母はぼくにいろいろ話してくれるのですが。
そのなかでもぼくがけっこう好きなエピソードはね、
あるとき、それは
母が大人になってからだとぞんじますが、
母とおばが会い、その日は快晴だったので母が
「雲一つない天気だね!」と伝えると、おばは
「いや、向こうに一つ雲あるよ。」と言われたこと。
つまり、母とおばは向き合っていたから
母から見える景色は雲一つなかったとしても、
おばのほうから見える景色では、
雲が一つ空に浮かんでいた。

この話しをいつごろか母から聞かされて以来、
快晴で雲一つない天気だったとしても、
どこかに雲あるかもしれん、って、ぼくも
空の中から雲を探そうとしてしまうし。
はたまた、母とぼくでお出かけしたときには
もしも、母が
「雲一つない天気」と口にすれば、ぼくはすかさず
「いや、向こうに雲あるかもしれん」
って言いながら、おばのことを思い出しつつ、
二人で笑い合うというときもあるのよね。

この「雲」のことから考えられる教訓としてはさ、
たとえば、二人で同じ場所に居たとしても、
じぶんから見える光景と
あいてから見える光景は、
ちがう、ということかなあ。
つまり、じぶん自身が見ているものだけが
絶対ではないのだし、そしてなおかつ、
こっちから見えるものと
あっちから見えるものはちがう、というような、
世界とは立体的である。

最近のぼくのブログでは、
ニュースや報道のことについて考えながら、
そのことについてしるしていたけれども。
なんだか、このことを考えていたら、この
母と叔母の「雲」の話しを思い出したのよね。
つまりはさ、ニュースだっても、
空に見える雲のように、
見る方向がたがえばその形が変わってくるがごとく、
立体的なものやもしらないなあ。

令和5年8月20日