20190925空

一度だけの「他己肯定」というお守り。

「自己肯定感」や「自己肯定力」ということばのことを、
いまいちど、あらためて考えているの。

ぼくは、じぶん自身が、
「自己肯定感」や「自己肯定力」というのが
とてもひくい。とは自覚している。

ただ、あらためて考えてみれば、以前と比べれば、
それならそれで、その状態のままで、
なんとかやってかんとなあ。
ってゆうふうには、思うようになってきた気がしている。

いま思えば、
じぶん自身の「自己肯定感」のひくさによって、
いろいろ、よくなかったことってたくさんあって。

そのなかでのいちばんはさ、やっぱり、
他人からの「肯定」を、
闇雲に、問答無用に、エンドレスに求めてしまう。
というところだと思っている。
こういう「他人からの肯定」ということばのことを、
「自己肯定」と比較させれば、
言うなれば、「他己肯定」と言うのかな???

「自己肯定」ができないから、
「他己肯定」によって、
「肯定」の感覚を得ようとする。

それもさ、ある意味では、
肯定してもらえれば、とっても有難いことなのですが。
一度してもらった「他己肯定」に味をしめて、
もういちど、もういちど、と連なってゆき、あげくには、
その他者からの「他己肯定」に「依存」してしまう。
そして、このじぶんの「依存」によって、
他者も、じぶんも、倒れてしまう。みたいな。。。

こういうふうに考えてみれば、
他者による「他己肯定」というのは、
もちろん「当たりまえ」のことだと思ってはいけんし。
してもらえれば「とっても有難い」と思えたいし。
さらにはさ、もう、
一度の「他己肯定」だけでじぶんは大満足したい。
じぶんが、二度、三度と求めてしまうから、
それがエンドレスになって、依存的になってしまうでしょう。

一度だけの「他己肯定」を
「お守り」のように携えながら、
ときに、この「お守り」をそっと取り出して眺めるようにして
過ごしてゆくことが、
じぶんの「自己肯定感」につながるんだと信じたいわ。

令和元年9月25日