世界と出合いと拳銃と香水のこと。
そして、数年ぶりに村上春樹さんの小説『1Q84』の
まずは「BOOK2」までを読み返してみて、
もうすこしだけ思ったことはね。
たとえば、
青豆が首都高速の非常階段を降りることでたどりついた、
これまでの「1984年」とはすこしちがった世界、
(警官が、大型のオートマチック拳銃を携行しており、
その制服もカジュアルで柔らかい材質なものになっていた世界)
という物語は、どことなく、
「誰もビートルズを知らない世界」が描かれた
昨年公開の映画『イエスタディ』を思い起こす気がしたし。
そして、天吾と青豆が
おたがい出合おうとするというストーリーは、やっぱり、
2016年公開の映画『君の名は。』が思い出されるし。
はたまた、青豆がタマルに「拳銃」の調達をお願いするときに
タマルが青豆へ伝える、
「チェーホフの拳銃の話し」とゆうのは、
「拳銃」が登場した
昨年公開の映画『天気の子』のことを思ったのよね。
「チェーホフがこう言っている」とタマルもゆっくり立ち上がりながら言った。「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない、と」
「どういう意味?」
タマルは青豆の正面に向き合うように立って言った。彼の方がほんの数センチだけ背が高かった。「物語の中に、必然性のない小道具は持ち出すなということだよ。もしそこに拳銃が出てくれば、それは話のどこかで発射される必要がある。無駄な装飾をそぎ落とした小説を書くことをチェーホフは好んだ」
(村上春樹さん『1Q84』新潮文庫「BOOK2・前編」39-40頁より引用です。)
‥‥とのようにタマルは言っているけれども。
『天気の子』ではたしか全部で2発、だっけか?!
帆高が撃ったと記憶しているが。
『1Q84』では、どうだったんだろうか。
「BOOK2」の終了時点では、「まだ」、
青豆の拳銃に装填された弾丸は発射されていない。。。
そういえばこの『天気の子』ではさ、
帆高が、春樹さん訳の
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を持参していたよなあ。
そしてこの「チェーホフの拳銃の話し」の場面を読みながら、
ぼくがもうひとつ思い出していたのは、
コピーライター・谷山雅計さんが
著書『広告コピーってこう書くんだ!読本』(2007年発行)
のなかでおっしゃっていたあることだったですが。
ここのところを、書籍より引用しますと、、
これは以前、糸井重里さんにお聞きした話ですが、たとえば、「この香水はウンコのような香りはしない、すばらしい香りです」という文章があったとすれば、受け手はどう感じるでしょうか。
この文章は、論理的には「この香水はすばらしい香りです」という意味を述べているわけだけれども、パッと見たり、聞いたりしたら、まず「ウンコのような」という部分が目や耳に入って、くさそうなイメージしか残らないでしょう。こんなふうに受け手は “生理的な部分” が優先してしまうんです。
だから、まず書くときには、論理や意味で書いて、それをあとで自分自身で「生理的にどう感じるのか」とチェックする。
(谷山雅計さん著『広告コピーってこう書くんだ!読本』76-77頁より引用です。)
‥‥ということと、それが、
どことなく似ているような気がしたのよね。
たぶん、どんな物語でも、どんな文章でも、
その中に「なにか」の語句を登場させてしまえば、
その「なにか」が、書いた人の意向を超えながら、
動き出してしまうことがある。
みたいなことなのでしょうか?????
ことばって、ある意味では、どんな語句でも
言ったり書いたりするのは簡単ではあったとしても、
その「簡単に言ったり書いたりしたことば」が
書いたのちに、本人の意志を超えてしまって、
まわりや、さらには、じぶん自身にさえ、
降りかかってくる。ようなこともあって。
なんだか、うまくことばで言えないけれども。
でも、『1Q84』を読み返しながら、
そんなことを思っていたんだ。
重力が眠りにつく1000年に一度の今日
太陽の死角に立ち 僕ら この星を出よう!!!
令和2年1月16日