20190723空

あまりにも複雑な話し。

あまりにも複雑な話し、というのは、
いろいろあって。

たとえば、前回noteでも申しあげました、
宮迫博之さんと田村亮さんの会見でお話しなされました
一連のこと、というのはとっても複雑で。
ぼくには、その全体をどのように見たらよいのか? 
は、よくわからないし、むつかしい。

また、このごろぼくの父親の医療費のことで、
申請の手続きをしておったのですが。
この手続きというのは、たとえば制度についてや、
必要書類や、もろもろがなかなか複雑ですから。
ぼくが窓口の方とお話しするときには、
ほんとうに前のめりになってお話しを聞かないと、
ほんとうにむつかしいままになってしまう。

そしてまた、たとえば、なんでしょうか、、、
村上春樹さんの小説『1Q84』の物語は、
かなーり複雑であるし。
(複雑でいて、しかもおもしろい、と申しあげますか、
とても興味深い物語とぞんじております。)

あとは、じぶんのことで恐縮なんですが、
じぶんの家族のいろいろのこと、とゆうのもさ。
説明しようとすると、かんたんには言えなくって、
複雑よなあ。って。いや、でもね、
おそらくどの家庭でも、そういう複雑さ、というのは、
あるような気もするんだけれども。

そういう「あまりにも複雑な話し」と出合ったときには、
たとえばその内容を「要約」したりするのは、
大事だろうなあ、と思うですが。
でも、前回noteでも申しましたが、
たとえば「編集」だったり「要約」だったり
「これをひとことで言うとこういうことだっ!!!」
のように言ってしまうのは、ある意味では、
なにかが抜け落ちてしまうのはひつぜんで。

だからこそ、複雑な話しを複雑なままに、
まるごとをまるのままに、
受け止めようとするのも大事なのかもしれないなあ。

そうなるとだよ、つまりんっ、
とっても大きくて複雑でむつかしい話しを、
まるのまま受け止められる手のひら、とゆうか、
まるごとを詰めることができる丈夫な頭をもちたい。

さういふひとにぼくはなりたい。

令和元年7月23日