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矛盾と葛藤を通じて果たされること。

人間の成長及び成熟とは、
どのようにしてなされるのか?
と考えるときにぼくが思い出すのはね、
内田樹さんが書籍で書かれていた
「成熟は葛藤を通じて果たされる」のことです。

 先生の言うことは論理的には「おかしい」のだけれど、実感としてはきわめて切実である。それでいいのです。教師は言うことなすことが首尾一貫していてはいけない。言うことが矛盾しているのだが、どちらの言い分も半分本音で、半分建前である、というような矛盾の仕方をしている教師が教育者としてはいちばんよい感化をもたらす。そういうものです。
 きれいに理屈が通っている、すっきりしている先生じゃダメなんです。それでは子どもは育たない。成熟は葛藤を通じて果たされるからです。

内田樹さん著『街場の教育論』113-114頁

内田さんが著書『街場の教育論』でおっしゃるのは、
ここでは教師と子どもの関係性ではあるのですが、
このことを読みながら、ぼくは
子どもだけでなく、大人も含めて
人間の成熟とは葛藤を通じてなされる、
と考えたい。

なぜ、葛藤を通じて、
人は成熟するか? というのもね、
書籍の中でご説明されていると存じますが、
ぼくなりに考えてみるとすると、
やっぱり、葛藤って
本人自身が考えようとするから。
かつ、そもそも、この世界こそが
矛盾しながら成り立っているから。

「矛盾」という故事成語って、
ぼくはけっこう好き、と申しあげますか、
うまくできていることばだなあ!
と存じます。つまり、
「どんな盾をも貫く矛」と
「どんな矛でも貫けない盾」があったとして、
その矛でその盾を貫いたらどうなるか?!
というストーリーが語句のもとになっている、
とのことだけれど、そういうようなことって
この世界では大なり小なりたくさんあるとも思うし、
もっと言うならば、
「ことば」が存在していれば、
「矛盾」は必ず起きる。
逆を言えば、ことばを使うことにおいて
「矛盾」が発生しない状況なんて無い。

ことばには、そういうような
「矛盾」を孕むという性質がある、
って思ったほうが妥当だとも思うの。

そういうようにして、
矛盾が発生した場合には、
そのことばによる矛盾がよくない、とかは
考えてはいけない。
そこで考えるべきことは、
その矛盾は、どのような矛盾なのか?
を考えられたい。
でも、それを考えるのは
たやすいことじゃあない。
そのときに、人は悩む。
悩みながら、葛藤する。
葛藤をすることによって、たとえば
ことばとはなにか? とか、
この世界とはなにか? とか、
じぶん自身とはなにか? とか、
などなどを考え込む。
そして、考え込むことによって
人は成長や成熟を果たしてゆく。
みたいなことでしょうか????
解釈がちがっていたら、すみません〜。

なので、その逆を言うともすれば、
こういうときには、
こういうふうにしたら、
即、解決できる、みたいなことばが
一番、成熟を遠ざけてしまう。

みたいなことを申しあげながら、
ならば、そんなことを言うぼく自身は
どうなのか? って問われたとすれば、
ぼく自身は、たびたびには
考え込んだりはするものの、
成長とか成熟とかってえのは、
ぜんぜんしていない! とも思えるー。

でも、そのような
成長及び成熟というのは、
この上で申したかのごとく、
即、簡単になされる、
というわけでもないと思うので、
ぼくも、いつか、これから
成熟した人に成れたらよいんだけれど〜。

令和6年9月18日