常識だと考えてしまっていること。
先日、宮﨑駿さん監督の映画作品集を購入してから、
以前のブログのときから少し時間があいてしまったけれども、
今回はね、平成13年公開の
『千と千尋の神隠し』を観ました〜。
『千と千尋の神隠し』は当時映画館で観て、その後も数度
テレビ及びレンタルで観ていると思うけど、
やっぱり、すばらしいなあー。
たとえば、映画の中においてたくさんの要素が
詰まっているかのようでいて、すごい!
『千と千尋』での印象的なシーンというのは、
たくさんたっくさんあるのですが、
今回観てとくに感じましたのは、
千尋の両親のことです。
千尋と千尋の両親の三人は、ある森で迷い込み
そこから不思議な世界へ足を踏み入れてしまう。
千尋の両親は、その世界の街の中の
お店の前に置いてある食べ物を食べ、
呪いによって豚にされてしまう。
このとき千尋は、母親から
【千尋も食べな!】と促されるも、
【いらない。ねえ、帰ろう? お店の人に怒られるよ。】
と言って食べなかったけれども。
ならば、逆に、どうして千尋の両親は
この食べ物を食べてしまったんだろう?!
って考えるときに思うのはね、
当初、その食べ物を目の前にした父親は
【すいませーん! どなたか居ませんかー!】
とお店の人を呼ぶも誰もおられず、そして、母親が
【いいわよ。そのうち来たらお金を払えば良いんだから。】
と言って、それを聞いた父親も
【そうだな。】と言いながら食べ物をお皿にのせてゆく。
さらにまた、千尋が
【お店の人に怒られるよ。】と話した後で父親は
【大丈夫! お父さんがついているんだから。
カードも、財布も、持ってるし。】
なのだとして、問題ないことを強調する。
しかし、問題ない、ということは全く無かった。
ってゆう場面を観ながら考えられることは、
千尋の両親が言われている「お金」や
「カード」や「財布」がキーワードになっていると思う。
つまり、お金さえ払えば大丈夫かのごとく、それはいわゆる
資本主義的な思想及び信条、と申しあげますか。
このことでさらに思うならば、この
不思議な世界へ入り込んでしまったときの
とあるトンネルを抜けた先では、千尋の父親が
【やっぱり、間違いないな。テーマパークの残骸だよ、これ。
90年ごろにあっちこっちでたくさん計画されてさ、
バブルが弾けてみんなつぶれちゃったんだ。
これもそのひとつだよ、きっと。】
って千尋たちに説明していたけれども、その説明もまた
「間違いない」というわけでは全然無かった。
父親は、このように
「テーマパークの残骸」だと思い込んでいるからこそ、
なおかつ、父親も、そして、母親も
「お金」を払えば良いと思っているからこそ、
二人はこのお店の前にある食べ物を食べてしまった。
ここで言われる「テーマパークの残骸」及び
「お金」というのは、つまり、資本主義的な世界における
「常識」なのだと思うのよね。
でも、その常識とは
その世界だけの常識であって、
別の世界には別の常識があり、
別のルールがあり、別の掟がある。
そのことを、千尋の両親は思えなかったがために
このような事態が起きてしまった。
宮﨑駿さんの作品集を購入してから、ぼくはこれまで
『崖の上のポニョ』→『ルパン三世 カリオストロの城』→
『となりのトトロ』の順番で観ながら、今回、この
『千と千尋の神隠し』を観たですが、たとえば
『トトロ』のサツキとメイの両親と比べると、
『千と千尋』の両親はちょっと雰囲気がちがう。
どこがちがうかと申しあげますと、
先日のブログの中でもすこし記しましたが、
『トトロ』でのサツキたちのお父さんは
ご神木のクスノキに対して、
「メイがお世話になりました。
これからもよろしくお願いいたします!」
とのように、お礼を伝えておられた。
つまり、神様及び自然の前において
「礼儀」を持つかのような。
言い替えるならば、じぶんたちの住む世界ではない
別の世界に対して敬意を表していた。
けれども『千と千尋』の両親は、そういうような
礼儀や敬意を持っておられなかった、
というふうにも解釈できる気がする。
だからこそ、森で迷い込んだ際、千尋の両親は
あたりにあった警告や注意のような存在にも、
気づくことができなかった。
このことってば、でも、
誰にでも当てはまる、と申しますか。
つまりはさ、ぼくもまたこの
現代の世界で暮らしながら、
資本主義的な考え方を宿しているからこそ、
常識だと考えてしまっている物事がある。
そういうのは、ある意味では
とってもこわいことだよなあ、って
『千と千尋の神隠し』を観ながら思ったんだった。
令和6年8月18日