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「プレゼント」について。

プレゼントに何を贈ろうか?
を考えるのは、
たのしくもあり、かつ、でも、
大変なことだ。

プレゼントを考えるときにぼくが思うのは、
「何を贈れば相手はうれしいか?」
というのは、もちろんのこととして、
それにプラス、
「そのプレゼントをぼくがもらったとしたら、
ぼくはうれしいか?」という、つまり、
「ぼく自身が欲しいものかどうか」というのをね、
大事にしてたい、と思っているの。

もちろん、
「ぼくの欲しいもの」が
「相手も欲しいもの」とは限らないから、
そこは注意したいんだけれども。
でも、たとえば、相手から
「これが欲しい。」と言われたものをあげる、
としたら、いや、
そういうプレゼントも重要ではあるとしても、
でも、そうしたら、
だれがあげても同じ、というか、
ぼくがあげるかどうかは、
関係なくなってしまう面もある気がして。
これを言い換えれば、
「ぼく」という主語が無くなってしまう、みたいな。

ある意味ではさ、
プレゼントによって、
プレゼントをあげた人が、どういう人なのか?
というのが、わかる、というか、つまりはさ、
「プレゼント」って、
わたしとはどういう人間か、ってゆう、
「プレゼンテーション」だと思っている。

ともすれば、
プレゼントでね、たとえば、
「じぶんの要らないもの」をあげるよりかは、
「じぶんの欲しいもの」を贈って、
そして、もしも、そのプレゼントで
喜んでもらえたとしたら、
とってもうれしいし、
とってもたのしいし、
そのプレゼントにね、なにか
大切なストーリーが宿るような気がするの。

そんなふうにして、
「相手が喜ぶかどうか」と、
「じぶん自身が欲しいかどうか」とを、
すりあわせて考えることが、
プレゼントであり、そして、
そういうじぶん自身を伝える、というような、
プレゼンテーションの機会なのだと思うのよね。

って、こう書いてみて気づいたけれど、
「プレゼント」と
「プレゼンテーション」って、
ことばが似ているんだなあ。

そもそも、なんだか、
あらゆる行動がさ、じぶん自身を伝える
「プレゼント」であり、かつ、
「プレゼンテーション」のようにも思われる〜。

令和4年8月3日