言語の時代。(世界はこのまま変わらない_mix)
ぼくは英語ができなくって、及び、
外国語の言語は全くできない。
いや、母語である日本語さえも
もしかしたらままならないやもしれないが、
それでも、やはり、母語なのだからこうしてことばを
書いたり読んだり話したりすることはできるとしても、
外国語で書いたり読んだり話したり、って
それだけの勉強をしていないから当然なのだとしても、
おそらく、ぼくは、たとえば
「英語を話せるように成りたい」という情熱も、
もしくは、その動機すらも、
ぜんぜん無いんだとも思えてしまう。
英語及び外国語に堪能な方々は、
血のにじむ努力をなされてそうなられたか、
もしくは、すんなりのごとく
そのようになられたか、というのは、
ぼくにはわからないのですが。
ぼくはもう仮にどれだけの努力をしたとしても、
英語が堪能になる、というのは
できないようにも思えてくる。
いつごろからでしたか、この数十年来、
「これからは英語の時代になる。」
と言われるようになったのだけれども。
そんな英語のできないぼくとしては、そう聞くと
絶望的な気持ちにもなるけど、でも、ならばこの
「英語の時代」とはどんな時代なのでしょうか?
今後、日本の公用語として
日本語が廃止され、全員、すべて、
英語を話さないといけない。
さらには、地球の言語としても
地球上のあらゆる言語が無くなり、
英語のみが話されるようになる。
そのような状態を目指してゆくことが、
「英語の時代」ということなのかどうか?
それはさすがに大袈裟かもしれないですが。
でも、グローバルな時代に突入し、そして、
世界中で戦争が行われる現在ではこの日本列島でも
戦闘が開始される可能性もゼロパーセントでは無い、
と言えるだろうから、もしもそうなってしまえば
日本で住む日本人たちも、外国へと
避難しなければならなくなり、ともすれば、
避難先の現地では日本語が通用しないから。
つまり、そこまでを見越しての
「英語の時代」と叫ばれているのでしょうか?!
そもそも、なぜ、このときの言語とは
数多ある言語のうちの「英語」なのだろう。
もっと考えてみれば、なぜ、日本では
義務教育のあいだから外国語として勉強するのは
「英語」なのだろうか。
つまり、「英語」という言語は
地球上の言語のうちで最も優れている言語なのか。
優れているとは言い過ぎなのだとしても、
やはり、言語において
何かしらの有利性があるのかどうか。
それとも日本は戦争で米国に負けたから、
いわば、属国的なこととして、
つまり、宗主国からの指令として
「英語」を勉強しないといけないのか。
そのへんはぼくにはわからない。
でも、そんなふうに考えるともすれば
言語というものは、そもそも
戦争とも関係が深いと言えるやもしらない。
ならば、これまでにおいても、たくさんの言語が
戦争によって消滅してきたのだろう、
とも想像するのですが。
これからは「英語の時代」である、
というのはそれはそうなのかもしれないけど、
でも、ぼくとしては、そうよりもこれからは
「言語の時代」なのだと思えたい。
ともすれば、ぼくはぼくとして
そのような「言語の時代」においては、
母語である日本語という言語の
さらなるポテンシャルをぼくの中で開けたい。
そのためにはさ、やっぱり、
外国語も勉強することで、逆に、
日本語はこんな言語なんだなあ! って、
日本語という言語の再認識もしてゆけたい。
これからはね、そんな
地球各地におけるあらゆる「言語」によって、
人々はコミュニケーションを行い、且つ、
人々はイマジネーションを行う。
それが、つまり、
これからのサジェスチョンであり、
これからのナビゲイションであり、
これからのカンバセイションである。
Maluphakanyisw' uphondo lwayo!
Morena boloka setjhaba sa heso!
Hello my friend and brother!
Can you hear me?
令和5年11月18日