よりどころになっている文法と可能性。
最近のブログでは、ぼくは
文章を書くことが好きとは言い難く、また、
得意でもなくて、つまり、文章を書くのが
苦手なんだなあ、みたいことをしるしていたですが。
そんなぼくがブログで文章を書くときには、
その文章がおもしろいかどうか、及び、
その文章の内容が良いものかどうか、
という懸念よりもね、そもそも、
この文章とは日本語として成り立っているか?
つまり、日本語の文法に合っているか?
ってゆうのがいつも心配としてつきまとう。
一応、ブログの文章を書き終えてから
noteへと投稿をするときには、
じぶんなりには文章が完成している、とは思えども、
でもやっぱり、毎回、じぶんの文章が
すっきりとした文章じゃあないとも感じられるし、
わかりにくい、読みづらい、おかしい、まちがい、
というような問題点が満載なのではないか?!
とも思うけれども、それらをね、文章を
書いている途中からなんとかすることもできないから。
そう思えば、ぼく自身は
日本語が母語ではあるが、
その母語も使うこともできないか。
って感じたりもする。
でも、たとえば、今回のブログだってもね、
たとえじぶんなりにだったとしても
ここまでをしるしながら、この先も
もうすこし文章はつづくと思うけど、
このときによりどころになっているのは、
やはり、日本語の「文法」だと思われる。
つまりはさ、そもそも
「文法」というものが無ければ、
最初は全く真っ白なページにて
最初のことばを置くことができれば、
あとは、言語における文法のおかげで
文章が進んでゆくこともある。
その文法とは、たとえば、
学校で習ったものもあると思うし、
誰かと会話をすることで身についたものもあるだろうし、
書籍等の文章を読みこういうふうに書くことができるか、
って知ったものもあるでしょう。
文法があるからこそ、つまり
文法というルールがあるからこそ、
文章を書こうとすることができる。
その逆を言えば、
文法という檻の中に閉じ込められている、
とも言えるやもしらないけれども。
それはさ、でも、いわゆる「文章を書く」ことは、
自由なのか、それとも、自由じゃあないのか。
自由かどうかで言うならば、
ルールや制約があるということは、いわば
レールの上を走る「列車」のごとく、
ぼくらは文章を書いているのかもしれないか。
ならば、いっそのこと、
線路はどこまでもつづくかのごとく、
かつ、その線路が終点へとたどりついたら
乗り換えをするかのごとく、
線路の上を走ってゆくことができたら。
そう考えてみるとね、
母語の言語さえもうまく使えないぼくでも、
これからもなお、その言語を
知ってゆくことができるともすれば、
文章を書くことにおいても、まだまだ
可能性は広がっているだろうと思える。
令和5年11月17日