誤解はともだち。
前回noteでは、比喩の表現について、
「のような」というような語句が使われない
「暗喩(メタファー)の表現」と、
比喩が使われない「直接的な表現」では、
どちらの表現においても、
「のような」のことばが使われないんだから、
そのふたつは似ている、と考えれば、
「直接的な表現」のほうの文章を、
読み手側が、勝手に
「これはなにかのメタファーなのではないか?」
って、誤読してしまうこともありうるやもしれない。
みたいなことを書いたんだった。
文章の「誤読」とか、もしくは、
「誤解」とか、って、
よくないふうに言われることもあると思うけれど、
ぼくは、そこまで、
わるいことだと思っていない。
厳密的に言えば、
「完全な理解」というのは、
ありえない、と思っている。
たとえば、文章でも、
はたまた、だれかのお話しでも、
とてもつらい体験をされた方の気持ちを、
簡単に「わかる」とは言えない。
つまり、他人の気持ちを、
完璧に理解することはできない。
このことをもうすこし言い換えれば、
他人の気持ちを、
「理解しようとする」ことはできたとしても、
ある地点に到達すれば、かならず、
「理解」には至らない場面がやって来る。
以前、内田樹さんが著書の中で、
「あなたって人が、よーくわかったわ。」
ということばは、たいてい、
別れのときに言うことばです。
と、書かれていたと存じますが。
(内田樹さん著『先生はえらい』102頁より参照です。)
つまりはさ、
「理解」というのは、
コミュニケーションの「終了」を表している。
たとえば、会話のときでもね、
相手に対して「もう、わかったよ。」と言うときは、
(いいから、黙って。)というのを暗に伝えている。
理解をしてしまえば、
コミュニケーションが終わる、とすれば、
どれだけ理解しようとしたとしても、
完璧な理解には至らず、多かれ少なかれ、
誤解の状態がつづいてゆく。
でも、この「誤解の状態」をね、
いやなものだとして、
「理解」の方向へ向かおうとしたとしても、
やっぱり、どこかでは、
「誤解」や「誤読」の余地を残しておかないと、
息が詰まってしまう、というか。
そういうふうに考えてみると、
そもそもの前提がさ、
「誤解」であったり、
「誤読」であったり、するならば、
「誤解」や「誤読」を、
わるいものとして捉えようとするよりも、
ともだちなのだと思えたら、
コミュニケーションにおいて、
じぶんの気持ちも楽に成れるやもしんない。
って思うの。
たとえば、
「1を聞いて、10を知る。」
ということばだっても、
そこで聞いていない「9」の部分はさ、
それを学んだ人が、じぶんで
勝手に補完するかのようにして、つまり、
よいふうに誤読したり、
よいふうに誤解したり、
することによって学んだならば、
それは、それで、いいじゃん! と思う。
理解よりも、
誤解や誤読のほうが、じつは
世界が開かれているようにも感じるのよね〜。
令和4年8月26日